ローテーション (1)

「もしもし?」

「和田のバッカヤローッ!」

 いきなりの大声に受話器を当てていた左耳の鼓膜がキーンと鳴った。油断した。かなり油断した。今度から週末の夜に掛かってくる非通知電話は絶対に取らないと固く誓うと、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。頭の中を仕事モードに切り替える。

「お客様、大変恐縮ではございますがダイヤル先を間違えていらっしゃるようです。もう一度、お掛けになった電話番号をご確認していただけますでしょうか?」

「はあ? 間違ってなんかないわ。これって、松下律子ファンクラブの専用ダイヤルでしょう?」

 呆れてものも言えず、大袈裟にため息をついた。

「ため息なんかついると幸せが逃げていくわよ。ねえねえ、それよりも和田って誰だか気にならない? どうしてバカなのか興味ない?」

「ありません」

「あんたねー、クライアントに対する態度がなってないわよ」

「こんな深夜に下らないプライベートコールを掛けてくるユーザなんていません!」

「相変わらず冗談が通じないわね。ま、そんなわけで今から車で来て。いつものところでよろしく。じゃねー」

「あ、ちょ、ちょっと!」

 考える余裕も口を挟む余裕もなく電話は唐突に切れた。「通話時間:四三秒」と表示している子機のディスプレイをぼんやり見ながらわたしは再びため息をついた。いつもの律子、そしていつものわたし。今回も出だしから負け戦気味だった。

 電話機を充電器に戻し、肩を落として振り返ると、ダイニングにいる彰夫と目が合った。

「また律子ちゃんからのラブコールか?」

 その言葉に苦笑するしかなかった。

「ホントに仲いいよな、お前ら」

 彰夫は笑いながら缶酎ハイを飲んだ。

「別に仲がいいわけじゃないけど、……わたしたちの会話、分かっちゃうんだ」

「まーな。律子ちゃんと話しているときのお前の顔や口調、いつもと違うからな」

「…………」

「今度は鏡を見ながら話してみな」

 眉間に皺を寄せてガミガミと話す自分を想像して更に落ち込んだ。

「今から出掛けるんだろう? 泊まりか?」

「あ、……うん、たぶん朝まで帰らないと思う」

「じゃあこの続きは来週だな」

 嫌みのない言葉が胸に突き刺さる。きっとそれが顔に出てしまったのだろう、彰夫はテーブルに缶を置くと優しい笑みを浮かべた。

「気にするなって。今度は二回分、まとめてぱーっとやろうな」

「ごめんね、せっかく来てくれたのに」

「いいってことよ。親友のピンチなんだろ」

「親友じゃなくて悪友」

「あはは。まあ、早く行って来な」

「ありがと」

 彰夫と短いキスを交わすと、手際よく身支度をして律子の待つ夜の街へと車を走らせた。

 待ち合わせ場所に程近い無人駐車場に車を止めて大通りに出ると、派手な深紅のコートに身を包んで腕を組んだ律子が立っていた。そこそこ遅い時間にもかかわらず繁華街は人で溢れ、その中で律子は行き過ぐ人たちの視線を集めている。それもそうだ。顔もスタイルもいい上にお洒落で、ただそこにいるだけで嫌でも目立つ。

 昔から律子には異性を引き付ける力があった。わたしにはない女としての魅力。ただ不思議と、羨ましいと思うことはあっても嫉ましく感じたことはない。きっとあまりにレベルが違いすぎて勝負にならないと分かっているからだろう。

 そんなことを考えながらぼんやり観察していたところ、やがて律子はわたしに気づき、片手を上げてこちらに向かって歩いてきた。

「よっ。遅かったじゃない」

「呼び出し料金、深夜特別料金、及び迷惑料金で締めて前金で五万円になります。ガソリン代は別途、実費請求」

「バカなことを言ってないで。ほら、時間がもったいないからさっさと行くわよ」

「……半分、本気だったのに」

「ガソリン代くらい払ってあげるわよ。駐車場、こっちよね?」

 ため息をついているうちに颯爽と先に歩き出した律子の後を慌てて追い掛けた。ヒールの小気味いい音が歩道の石畳に響く。姿勢のいいその後ろ姿を言葉で表現するなら「凛々しい」の一言に尽きるだろう。

「いつも思うけど律子って派手よね」

「ん? これのこと?」

 律子は立ち止まると振り返り、コートの裾を持ち上げてみせた。

「こんなの派手でもなんでもないって」

「ううん、わたしには絶対に無理」

「またそんなこと言って。無理かどうかなんて要は気持ちの問題よ。気持ち。あんただって着てみればいいのに」

 どう答えたらいいか分からずとりあえず笑ってみたが、きっと苦笑だったに違いない。考える必要もない。その毛皮のロングコートは律子だからこそ似合うのだ。わたしだけでなくほとんどの女には着こなせないだろう。律子自身がそのことを自覚しているかどうかは分からないが、それでも彼女なりにわたしに気遣ってくれていることが少し嬉しかった。

 駐車場まで到着すると律子はコートを脱いで車の運転席に、わたしは助手席に乗り込んだ。

「CD、持ってきてくれた?」

 座席の位置を後ろに下げながら律子は尋ねた。

「どうせいつものやつでしょう?」

 ハンドバッグからゆずのアルバム「one」を取り出して見せた。

「よーし、えらいえらい」

 満面の笑みで手を伸ばすとクシャクシャとわたしの頭を撫でた。思わず照れてうつむく。律子は昔から男女を問わず仲のいい相手にときどきこうやってスキンシップをするのだが、いつまでも慣れない。

「え、えっと、それで今日の行き先は?」

「とにかく西。これは譲れない」

「前から聞きたかったんだけど、いつもどうして西なの?」

「常識よ。昔の人も言っているじゃない。そこへ行けばどんな夢も叶う――って」

「それって『ガンダーラ』よね」

「うん。ブッディスト・ユートピア、もしくは古きよき時代のインディアン・ドリームってところかしら」

「わたしたちとは世代が違うバージョンだけど」

「それも常識の範囲内」

 律子は基本的に流行に敏感でミーハーだが、妙に懐古趣味な面があったりする。そんなこだわりがある律子が羨ましいと思うことがあるが、どこから仕入れた情報なのかいつも謎ではある。ちなみにどうしてわたしがゴダイゴの「ガンダーラ」を知っているかというと、以前に律子から半強制的にDVDとCDのセットを貸し出されたことがあるからだ。

「ところで、地球って丸いから東に進んでもインドに到着するじゃない?」

「バカねー」

 律子は鼻でせせら笑った。

「中国や日本から東なんかに進んだら遠回りの上に海を突っ切らないといけないでしょ。そうしたら坊主と豚は一発でオダブツよ」

 坊主と豚――ああ、三蔵法師と猪八戒のことかと頭の中で変換しながら、そういえば河童って海でも泳げるのかしらとぼんやり思った。

 律子が東に行かない本当の理由は知っている。ここから東には彼女の実家があるのだ。彼女の家は古くからある造り酒屋だが、両親は一人娘の律子に婿養子を取ってもらうことを望んでおり、昔から早く結婚しろ結婚しろとうるさく言われていたらしい。一方の本人はそれから十年以上経った今もまるでその気はなく、自分の仕事と恋を捨てたくないと周りに公言して憚らない。

 ちなみに今の彼氏は律子の実家の事情をまったく知らないらしい。いつの日か告白しなければならない日が来るのだろうが、あくまで律子自身の問題であってわたしがどうこう言える立場ではない。普段から鈍いと言われているわたしでもそれくらいはわきまえている。

「何をぼんやりしているのよ」

「え? ……少し考え事」

「下らないことばっかり考えていると老けるわよ」

「大きなお世話です」

 ぶっきらぼうに言い返したが、わたしが考えていたことの方がよほど大きなお世話なので黙っていた。少し気まずい思いをしているわたしをよそに、律子はCDに合わせて鼻歌を歌いながらミラーの位置を直し、笑顔を向けた。

「さてと、準備も終わったことだし出発しますか!」

「……安全運転でお願いします」

「うむ、善処する」

 のろのろと動き始めたわたしの車は車道に出た刹那、急発進した。エンジンが悲鳴を、タイヤが金切り声を上げる。ジェットコースター顔負けの加速で息をつく間もなく黄色信号で交差点に侵入、急左折。遠心力を身体全体で感じながら、わたしは本日何度目かのため息をついた。

 ―― (2)に続く ――