右手に大きな紙袋、左手にかすみ草の花束と、完全に両手を塞がれた状態で一〇八号室の前に立った俺は、荷重の掛かった紙袋を一旦床に置き、念の為に戸口のネームプレートで患者の名前を確認した。確かに間違いない事を確認すると、大きく深呼吸をし、拳の甲を使って開け放された金属の扉に軽くノックをした。
「よっ。見舞いに来たぜ」
この部屋の住人である小島佳代は、パジャマ姿のままベッドの上で半身を起こし、枕を背もたれにして文庫本を読んでいたが、入口に立つ俺の姿を見つけると、眩しそうに目を細めた。
「こんにちわ、宇佐美君」
佳代は紙のしおりを本に挟み枕元に置くと、静かに微笑んだ。
俺は再び紙袋の取っ手を掴み、彼女のベッドへと向かった。デパートの紙袋を足下にどさりと降ろし、ベッド脇に畳んで立てかけてあったパイプ椅子を片手と足を使って組み立てると、その上に花束を乗せた。
「わざわざ来てくれてありがとう。確か一週間前にも来てくれたんだよね?」
「ああ。もっとも、今日は俺一人だけどな。瞳も賢哉の奴も、バイトやらサークルやらで忙しいんだってよ。親友が病気だってのに薄情な奴等だよな、全く」
俺は紙袋の奥から小さな赤い巾着袋を引っぱり出すと、それを佳代に手渡した。
「これは瞳からの差し入れ。手作りゼリーだってよ。本人曰く『瞳ちゃんの栄養万点ゼリーを食べて早く元気になりなさい』だってよ」
「ふふ。後でいただこっと」
「紙袋の残りは、お前が退屈しないようにって、瞳の奴がかき集めてきた少女マンガだそうだ。――ったく、こんなに重いなんて思わなかったぜ」
俺はGパンのポケットからハンカチを取り出し、額に浮かんだ汗を拭った。
「で、そっちの花は賢哉と俺から」
俺は椅子の上の花――この病院の隣の花屋でつい五分前まで並んでいた純白のかすみ草のブーケ――を指差した。
「ありがとう。二人にもお礼言っておいてね」
「OK」
それから俺は、止める彼女を押し切り、花瓶の花の取替え作業に取り掛かった。共同の流しで萎びた花を持参したものと取り替え病室に戻ると、花瓶を窓際のラックの上に置き、パイプ椅子に腰を下ろした。
「ごめんなさい、余分な仕事させちゃって」
彼女は本当にすまなさそうに頭を下げた。
「なあに、これ位、いいって事よ。――で、どうだ、身体の調子の方は」
「ん。今はまあまあかな。段々よくなってるみたい」
「そうか」
俺は何気なく部屋の中を見回した。がらんとした個室の中で気になったのが、前回来た時にはなかった数々の機器類。一つ一つから何本ものコードやらチューブが伸び、幾つかは彼女の身体へと繋がっている。その中で知っているのは唯一心電図だけで、彼女の心拍に合わせ、緑色のディスプレイに無言で波形を描いている。その様をぼんやりと眺めながら、――実際、佳代は顔では笑っているが、本当はあまり体調がよくないのかもしれない、そんな予感に囚われていた。
「……宇佐見君?」
俺は彼女の言葉に我に返った。
「うん、どうした?」
「実は、一つお願いがあるんだけど、聞いてもらえるかな」
「何だよ急に改まって。何か買って来て欲しいモンでもあるのか?」
「ううん、違うの。――えっとね、わたしの退院予定日、来月の下旬なんだけど、宇佐美君、もし時間が空いていたら来てくれないかな?」
「何だそんな事か。いいぜ」
「よかったあ。断られるかと思っちゃった」
彼女は大げさに胸をなでおろした。
「断るかよ。それよりも、それまでに早く病気治せよ」
「うん、分かった。――じゃあついでにもう一つお願いしよっかな」
「おいおい、お願いは一つじゃなかったのかよ」
俺は苦笑しながら言った。
「ふふふ。いいじゃない」
佳代は悪戯っぽい瞳で、無邪気に笑った。
「あのね、二つ目のお願いは、退院したらわたし、宇佐美君と一緒に――」
青空が見たい。
「青空? そんなの、晴れたらここの窓からでも見えるだろ?」
俺は顎で窓に向かってしゃくって見せた。
「それとも何だ、海とか山とかから、もっと奇麗な空を見たい、そういう事か?」
「ううん。別にどこからでもいいの」
じゃあどうして、と言いかけた俺の言葉を遮り、彼女は口を開いた。
「だって、最近、ずっと雪、やまないじゃない」
「……ユキだぁ?」
思わず俺は頓狂な声を上げた。
「ちょっと待て、それって、あの、白くて冷たい、空から降ってくる、アレか?」
「そう。その雪」
佳代は迷う事なく即答した。
「お、おいおい、まだ六月の半ばだぞ。梅雨になったばかりだってのに、夏と秋を通り越して、いきなり冬かよ」
何かの冗談だろう、俺は笑って答えた。
「幾ら何でもちょっと気が早いんじゃねえか?」
「そんな事言ったって、ほら――」
佳代は顔を曇らせると、腕を上げ、白磁のような指で窓を指差した。
「今も外、吹雪いているでしょ?」
「…………」
俺はゆっくりと後ろを振り向き、その指の指す方向を見た。
絶え間なく降り続ける絹糸のような小雨の中、オフィス街のビルや公園の木々が柔らかな煙霧の中に霞んで見える。梅雨時特有の雰囲気だ。
それなのに――雪? 吹雪?
「…………」
俺は絶句した。
「……雪じゃなくて、雨の間違いじゃないのか?」
「ふうん。変なの」
「な、何が変なんだよ」
俺は自分でも分かるほど上擦った声で聞き返した。
「だって、先生も看護婦さんもお母さんもお父さんも、雪が降っているって言うのに、お見舞いに来てくれた人達は、みんな変だって言うんだもん」
俺は再び相手を見た。佳代の目はあくまでも真剣そのもの、とても冗談を言っているようには見えなかった。
どういう事だ――?
「…………」
言葉が途切れた瞬間から、少し気まずい沈黙が二人を支配した。
俺はその場の雰囲気を打破すべく、必死に次の台詞を考えた。
「……とにかくよ、ほら、さっきのゼリーでも食って、元気になって早く大学に出て来いよ。俺達、今、お前がいないんで、すっごく困っているんだぜ。テストも近いってのに、ノート係のお前がいなくてどうするんだ。もし単位を落として留年でもしたら、お前にも責任があるんだからな」
「ふふ」
「何笑ってんだよ気持ち悪い。俺、変な事言ったか?」
「ううん、違うの。だって、宇佐美君、優しいんだもん」
「…………」
俺は一瞬、返答に詰まった。
「……優しいもんか。自分で言うの何だが、こんなに口が悪いんだぞ?」
「そんな事ないよ」
「まあ、佳代がそう言うならそうかもしれない。――じゃあ逆に気を付けろよ。そういう時は、決まって何か下心があるんだぜ」
口元を手で抑え、佳代はくすくす笑った。
「とにかく、一緒に空を見るの約束したからね。忘れちゃだめよ」
「はいはい、お姫様」
互いの目を見て、二人は笑い合った。
それから俺達は、大学の仲間達の近状などの話をしたが、程なく会社勤めを終えた彼女の母親が現れたので、俺はそれを合図に病室を後にした。
★
それから約三週間が過ぎた七月の中旬。
ようやく梅雨明け宣言が発表され、前期分のテストも終盤に近づいたある日の夕刻、俺はバイト先に向かうその道中、牧田瞳からの電話でその知らせを受けた。
『実は、さっき佳代のお母さんから連絡があって……佳代、ついさっき病院で息を引き取ったって……』
「…………」
俺は人混みの中で立ち止まり、携帯電話を耳に当てたまま、呆然とした。
(佳代が、死んだ――?)
俺はその事実を実感する事が出来なかった。
確か、退院日が今月の末だと言っていなかったか?
そして何よりも、数日前にも皆と一緒に見舞いに行ったばかりで、その時の彼女はいつもと変わらぬ様子だった。少なくとも俺の目にはそう見えた。八月に二十歳の誕生日を控え、これでようやく胸を張ってお酒が飲めるね、と笑っていたのに、それがどうして――。
その後しばらく、受話器の向こう側で、瞳はしゃくりあげながら、涙声で何やら呟いていたが、何一つまともな言葉として聞き取る事が出来なかった。突然の親友の死に取り乱しているのだろう。気持ちは分かるが、こうしてばかりはいられないので、とりあえず、賢哉には自分から連絡し、これからどうするかについてはまた追って連絡すると約束をし、電話を切った。
――泣きたいのは俺も同じだ。
その時ふと、俺はある事に気付いた。
そういえば、佳代とは入学以来一年以上の付き合いになるが、泣き言を聞いた事が一度もなかった。
通夜の席、俺は思い切って、佳代の母親に件の雪の話について尋ねてみた。
佳代が見ていた雪の正体、それは幻覚だった。
直接の原因は「麻酔薬」と「抗癌剤」。
彼女は癌だった。
一ヶ月ほど前に、自宅で突然腹部の激痛で意識を失い、救急車で病院に担ぎ込まれた時には、既に末期症状まで進行しており、最も蝕まれた肝臓だけでなく、その他の部位まで癌細胞は転移していた。患部の摘出手術は不可能、回復の可能性は皆無、それならばと、全身にばらまかれた時限爆弾の進行を抑え、そして何よりも苦痛を和らげる為に、医師と家族は彼女に大量の薬剤を投与する事を決定した。それが彼女に季節外れの雪を見せる要因となったのである。
ちなみに、佳代の母親の話では、最期まで彼女に本当の病名は告げなかったという事である。
だが俺は、少なくとも佳代は、自分の最期を予感していたのではないかと思う。幻覚症状の自覚、そして、モルヒネが切れる度に患部を襲う激痛。だからこそ、あんな約束をしたのだろう。
青空を、本当の青空をもう一度見たい、と。
翌朝、葬儀に参列する為に慣れぬ喪服姿で玄関を出た俺は、何気なく空を見上げた。正に彼女が望んだ通りの、雲一つない蒼く澄んだ夏空が、視野一杯に広がっていた。
「約束したからね」
屈託のない彼女の笑顔が、不意に脳裏によみがえる。
――約束、どうやって守るんだよ。
俺は何とも言えぬ息苦しさに、空に向かって溜息を吐き出した。