その手を伸ばして

 プラットホームに降り立った瞬間、焼け付くような真夏の日差しを想像していたので少し拍子抜けした。その代わりに心地よい微風が頬を撫で、何事もなかったかのように過ぎ去った。目を閉じて深呼吸するとほのかに潮の香りがする。確かに目的地に来たのだというささやかな満足感を感じながら、僕はボストンバッグを肩に掛け直し、改札口へと向かった。

 のぞみで名古屋から小倉まで三時間、在来線に乗り換えて二十分。予め到着時刻が分かっていたとはいえ、本州最西端の地・下関にこれほど早く着いてしまうとは思ってもみなかった。コストパフォーマンスを考えなければ日帰りも可能かもしれない。

 駅を出たところで一旦、バッグを下ろして辺りを見回した。日に焼けた健康的な顔立ちの人々が忙しそうに行き来している。八月上旬ということで観光シーズンには少し早いのだろうか、僕のようないかにも観光客な出で立ちの人はほとんどいないようだ。――いや、ここに来るまでは「下関=観光地」と思い込んでいたが、実際は違うのかもしれない。見たところ駅舎自体はそれほど新しくないものの、大きなショッピングモールが隣接し、その周囲には真新しい店舗が立ち並び、ごく一般的な中堅都市といった様相をしている。上手く言葉にできないが、観光を売りにする都市で時々見掛ける、ある種の押し付けがましさは少しも感じない。自分にはこれくらいの方が気楽で助かる。

 さてこれからどうしようかと、ぼんやりと空を見上げながら考えた。実はこうして二泊三日の予定で下関市まで来たものの、特に予定が決まっていない。事前に少しは下調べをしたが、途中で予定が変わるかもしれない、それなら現地に行ってから考えようと、結局、細かな行き先も宿泊先も決めずに来てしまったのだ。確定しているのは新幹線の発着時刻くらいで、その他は何もかもが行き当たりばったりを前提にした旅行である。ほとんど無謀としか言いようのないこのアバウトさは、子どもの頃から少しも変わっていない気がする。

 ジーンズのポケットから携帯電話を取り出して時間を見ると正午少し前だった。朝からほとんど身体を動かしていなかったが、いつもより早く起きたためか、普通にお腹が空いていた。とりあえず昼食ついでに買い物でもしようかと、荷物を担いだまま目の前のショッピングモールへと向かった。

 土曜の昼間ということで店内は多くの買い物客で賑わっていた。買い物を楽しむ人々に混じり、ぶらぶらと見て回っていると、たまたまレジャー用品売り場のビーチパラソルに目が止まった。

 ――そういえば、ここ何年か海に行っていないな。

 ――じゃあ海で泳ごう。

 自分でも笑ってしまうような二段論法で当面の目的が決まったので、水着とビーチサンダル、水中眼鏡を購入し、駅員に教えてもらった通りに山陰本線に乗り込んだ。古びた列車に小一時間揺られ、無人駅で下車してしばらく歩くと、緩やかな弓形を描く白い砂浜が見えてきた。

 買ったばかりのビーチサンダルに履き替え、人気のない浜を歩く。歩く度に足の裏から聞こえてくるシャクシャクという音が心地いい。何をするでもなく海風に当たり、目の前に広がる海原を眺めるだけで不思議と気持ちが落ち着いた。

 ふとつま先に当たった丸い小石を拾い上げてみた。風化して表面に無数の穴が空いているが、元はきめの細かい赤茶色の泥岩のようだ。同じような石があちこちに転がっている。この近辺の基盤岩だろうか――そんなことを考えているうちにやがて砂浜は途切れ、岩場に変わった。予想通り岩肌は先の小石と同じ色をしている。滑りそうになる足場に気を付けながら更に進むと、緩やかな波が打ち寄せる埠頭に出た。埠頭とは言っても一〇mほどの防波堤があるだけで、その傍には繋船された小型の漁船が静かに漂っていた。バッグを下ろして辺りを見回すと、今いるのは岬の先端で、先の砂浜――吉見海岸は小さな湾の最奥部になるようだ。

 幸い辺りに人がいなかったので、木陰でさっと水着に着替え、水中眼鏡を付けて海に飛び込んだ。海で泳ぐのは久しぶりだったが、身体は確かに水を覚えていた。表層は冷たくも熱くもなくちょうどいい温かさ。潜るとひんやりとした水温が心地いい。透明度はそこそこあるが生き物の類はあまりいないようだ。

 そのうちに泳ぐのも飽きてきたので、波打ち際で仰向けになり、胸の辺りまで海水に浸りながら日光浴をすることにした。文字通りライトブルーの空から降り注ぐ柔らかな光に目を細め、引いては寄せる波の不規則なリズムに身を任せる。たゆたう波の音、名も知らぬ鳥のさえずり、蝉の声、静かにそよぐ木々の葉――そういった音の数々を子守唄にうとうとしながら、数え切れないほど多くの雑念が浮かんでは泡沫のように消えていった。

 どれくらいそうしていただろうか、いつの間にか日が傾き、山の陰が頭上に落ちてきた。水温も急に下がってきたので海から上がって服に着替え、下関駅へと戻った。

 その日の宿泊先を駅近くのビジネスホテルに決め、チェックインしてシャワーを浴びた後、夕食と湯冷ましのために再び外に出た。

 ぼんやりと考え事をしながら歩いているうちに、街外れの波打ち際に来ていた。たぷんたぷんと、コンクリートブロックに打ち付ける波の音が聞こえる。両手をズボンのポケットに突っ込み、対岸の街明かりと、夜空よりも暗く何もかも飲み込んでしまいそうな漆黒の海面を眺めながら、僕は無意識のうちに、今日一日、一度も鳴ることのなかった携帯電話を手で握り締めていた。

 ――二〇〇四年八月七日。

 チトセに逢うために、僕は下関にやって来た。

 僕が所属するインターネット上の文芸サークルに初めてチトセが顔を出したのは、年の瀬が迫った昨年の十二月末のこと。最初はアクティブなメンバーが一人増えたくらいの認識しかなく、特に気にも留めていなかったが、年が明けた一月の中頃、僕が昔に書いた小説を読んでみたいと彼女からメールを受け取ったのをきっかけに、個人的なやり取りが始まった。

 メールの内容も初めのうちは自分達が書いた小説や読んだ本の感想だったが、回数・頻度が増えるにつれてテレビドラマや好きな音楽などの話題に変わり、互いのプライベートも少しずつ混じるようになった。

 チトセに関する小さなピースを集めて組み立てると、山口県下関市に住む高校一年生(今は学年が変わって二年生)の女の子だということが分かった。部活は水泳部。両親との三人暮らし。僕と同じく、趣味の読書が高じて自分でも小説を書くようになったとのこと。ハンドルネームとして使っているチトセという名前は本名から取ったと聞いている。きっと漢字で「千歳」と書くのだろう。

 やがてメールだけでは飽き足らず、夜の決まった時間帯にチャットをするようになった。普通の生活をしている限りは出会うことも話すこともありえない距離と年齢差だが、それが特別なことだとは意識もせず、純粋に会話を楽しんでいた。

 チトセとのやり取りが日常の一部になった頃、確か五月中旬だったと思うが、四、五日ほどチトセと連絡が取れなくなったことがあった。後から風邪で寝込んでいたと聞いたが、再び連絡が取れるまでの間、何とも言えない落ち着かない時間を過ごした。この時になって初めて、僕の中で整理できていなかったチトセへの感情が、実は恋愛ではないかということに気が付いた。一回り以上も年下、しかも顔も声も知らない相手だ。電子の海の向こうにいるという、会ったことのない少女を恋愛対象として見ていたことに、僕は他人事のように驚いた。

 ――それまで好きになった相手は、少なくとも一度は顔を合わせたことがあり、声を聞こうと思えば聞くことができ、触れようと思えば触れることができた。だが、チトセの場合は違った。キーボードとディスプレイを介し、文字でしかコミュニケーションができない関係。見ることも話すことも、触れることもできない。相手のことをもっと知りたいと思う以上に、ちょっとしたきっかけで壊れてしまいそうな微妙な関係を守りたいという思いが勝り、画面の上では気軽に話しながらも不安と焦りが心の内を占め、慎重に言葉を選ぶようになっていた。

 だが、いつまでもこのままでいるわけにもいかない。優柔不断な僕の心の中で、自分の気持ちに決着を着けたいという思いが次第に強まってきた。

 六月下旬のある日の夜、雨がやまなくて蒸し暑いとか、そろそろ期末テストだとか、いつものようにそんな話から始まったチャットの中で、僕は思い切って言ってみた。

『今度の夏休み、もし時間が合えばそっちでチトセに会いたいけど、いいかな?』

 半年の付き合いとはいえ、文字の上でしか言葉を交わしたことのない間柄だ。直接にしろ遠回しにしろ拒否されるだろう――そんなことを考えていると程なく返事が来た。

『うん、いいよ。でも下関ってなんにもないよ?』

 その飾らない一言が、僕の小さな勇気を後押しした。

 二日目の朝。駅前の喫茶店で朝食を済ませるとバスターミナルに向かった。ただチトセからの連絡を待っていても仕方ない、せっかく下関にまで来たのだから有名な場所くらいは回っておこうと、停留所の観光マップでルートを決め、バスに乗った。

 窓枠に頬杖を突き、すぐ後ろに座った老夫婦の素朴なやり取りをぼんやり聞きながら街並みを眺めていると、やがて正面に海が見えてきたのでバスを降りた。手を翳して空を見上げると目映い日差しが目に突き刺さった。昨日よりも暑くなりそうだ。僕が今いるのは、かつて中国や朝鮮との玄関口であった唐戸と呼ばれる地区の少し手前に当たる。

 まだ動き始めたばかりの商店街をぶらりと散策した後、先にチェックしておいた場所を回った。旧下関英国領事館、旧秋田商会ビル、そして下関南部町郵便局。いずれも明治から大正期の建築物だが保存状態がよく、作りがとてもおしゃれで好印象だった。

 その後、海沿いにある唐戸市場に向かった。ちょうど日曜日だったので一般向けに海鮮屋台を開放しており、市場は多くの人で溢れていた。目の前で魚介類が手際よくさばかれ、見る見るうちに色鮮やかな料理になる。威勢のいい掛け声が響く中、一つ一つの屋台を回り何にしようか散々迷った末に、フク(フグ)のから揚げと海鮮ちらしを買い、屋台横のベンチに座って食べた。食材が新鮮だったからだろう、とても美味しかった。

 少し早い昼食を終えた後は、右手に関門海峡を眺めつつ国道9号線を北東に向かって歩き、道沿いの観光ポイントを順に回ることにした。

 初めに立ち寄った赤間神宮は、壇ノ浦の戦いで海に身を投げた安徳天皇を奉葬した神社である。耳なし芳一が住んでいたとの伝承もあるようだ。日本の神社というと檜や萱などの建材をそのまま生かした素朴なものが多いが、ここは丹と白を基調とし、どこか竜宮城を髣髴させる中国風の煌びやかな作りだった。パンフレットの説明によると過去に何度か焼失しているそうだが、建立当時からこのような構えだったのだろうか。一方、すぐ隣の敷地にある平家一門の墓は、かつて世に名を知らしめた人々の墓標というにはあまりにも粗略な扱いで、予め知らなければ見逃すに違いないほどだった。「栄枯盛衰」の四文字が脳裏に浮かんだ。

 赤間神宮の辺りからも見える関門橋は、本州と九州をつなぐ大きな吊橋で、ちょうどこの辺りの海域が壇ノ浦になるらしい。目の前を阻む潮の流れは思いのほか速く、決して穏やかではないが、それでも手を伸ばせば向こうまで届くのではないかと錯覚するくらい間近に鎮西(九州)の地が見える。ここまで来て敵の追撃を振り切れなかった平氏の無念さはどれほどだろう。また、幕末に英・米・仏・蘭の連合艦隊と長州藩が戦った下関戦争が行われたのもこの海域である。橋の袂に到着してからしばらくの間、橋脚にもたれ掛かり、海流や通り過ぐ大型貨物船を眺めていたが、足の疲れが引いた頃合いを見計らって荷物を担ぎ、再び歩き出した。

 頭上から容赦なく叩き付けられる太陽光とアスファルトからの放射熱に汗びっしょりになり、徒歩で行くのは無謀だったかと後悔し始めたところ、ようやく下関市立美術館に到着した。海を臨む高台に建てられた建物で、美術館にふさわしくシンプルで静かな佇まいである。たまたまエミール=ノルデという画家の特別展をしている最中だったので、これを見学することにした。

 会場は六つのテーマに分類されていた。風景、人物、ダンス、花、幻想、そして「描かれざる絵」。最後の「描かざる絵」とは、第二次世界大戦中、作者がナチス監視下にあった際に隠れて描いた絵画とのこと。なるほど、展示プレートの経歴を読むと、一時はナチスの庇護を受けたものの、後年は逆に弾圧される側に回り、かの「頽廃芸術展」にも数多く出品されたらしい。個人的には初めて聞く名だったが、そこそこ有名な画家のようだ。

 だが正直言って、文句なしに素晴らしいと思えるような作品はなかった。大胆で奔放と言えば響きはいいが、度を過ぎれば稚拙で未熟となる。ここに展示されている作品は、どれもそのバランスが危うい気がした。しかしそれよりも気になったのは、作品、特に人物画に感じる目に見えぬ壁、距離だった。自分の感性が作品を受け入れないというだけでは言葉が足りない。作品が僕個人を拒絶している――そんな感覚である。この違和感をどう説明しようと考えながら、僕はいつしか作者・ノルデの人物像を作ろうとしていた。

 数多くの人物画を描いていることから、そこそこ他人とコミュニケーションが取れることは容易に想像できる。だが、彼の人物画は特異な視点で描かれており、絵画というよりもむしろ劇画や漫画に近い。ありのままに描くのではなく、離れた場所から対象を観察して特異な動きや色を切り出そうとする芸術家としての目、それが作品から感じる距離の実体に違いない。一方、風景画は作者と対象の心理的距離が非常に近接しており、人物画とのギャップが孤独への強い願望を感じさせる。

 また様々な手法・モチーフを用いているが、これは次から次へと溢れ出るイメージを素直に表現したというよりもむしろ、何を描いてもしっくりこなかったために何度もやり直したというのが正解ではないだろうか。そこにあるのは挫折、そして焦燥。以前に見たロートレックの絵から感じたものと同じ匂いだ。

 ――そうか、僕が感じた違和感、それは作品を通じて自分を見ていたからだ。自己嫌悪から来る孤独志向と挫折感、その裏返しとも言える他人への強い好奇心。更に言うならば、チトセと会うことへの不安、会えないかもしれないという不安が精神的負荷となり、結果としてよりネガティブな評価に結び付いたに違いない。何てことはない、作品を見る自分の目が偏っていたのだ。

 もう一度、素直な目で見直そうと、しばらく会場で見学していたが、やがて閉館のアナウンスが流れたので慌てて売店でノルデのレゾネを購入し、バスで下関駅に戻った。

 歩き疲れていた上に、何よりも汗でべたつくTシャツが気持ち悪かったので、早めにホテルにチェックインするとすぐにシャワーを浴び、ゆっくりと湯船に浸かって身体を休めた。風呂から出ると備え付けの寝間着を着て横になり、美術館で買ったカタログを開いてぼんやりと眺めていたが、そのうちに眠気が襲ってきて、ああ、灯りを消さないといけないなと考えているうちに意識が途切れた。

 ふと気が付くと身体が動かなかった。そういえばここ最近、寝ている間によく金縛りにあう。精神的・肉体的に疲れている時になり易いと言われるが、今の僕は後者が原因だろうか。しかもベッドで寝ていると思っていた自分がいつの間にか小さなトウモロコシ畑で立っている。……トウモロコシ畑? 立っている? どうやらここは夢の中らしい。

 どんなに頑張っても手足が動きそうにないので、頭を動かして身体を見回すと、なぜか全身がブリキでできていて、しかも畑に穿たれた杭に十字架に張り付けにされていた。つまり今の僕はブリキのカカシで、ここは「オズの魔法使い」の世界というわけだと、夢の中の僕は納得した。でも確かブリキなのはカカシではなく木こりだったはずだ。とすると、ひょっとしてライオンの臆病さも備えているということだろうか。

 顔を上げると畑の向こう側に大きな川が横たわり、対岸に大きな虹が掛かっている。ノルデが描いたような不思議な色感・質感を持った虹を眺めながら僕は考える。あの虹の袂まで、更にその向こう側まで行ってみたい。なぜだか分からないが、そうすれば何かが変わるような気がする。だがドロシーを待っている間に、きっとあの虹は消えてしまうだろう。そもそも彼女がここを通るという保証はどこにもない。ではどうしたらいいか――そこで僕の思考は停止する。

 あの物語の中でカカシが望んだのは脳、木こりが望んだのは心、ライオンが望んだのは勇気だった。今の僕が本当に望むもの、足りないものは何だろう――?

 気が付くとチェックアウトぎりぎりの時刻だった。

 ナイトテーブルの上の携帯電話を手に取ったが、予想通り着信履歴はなかった。がっかりした一方で少しほっとしたような複雑な気持ち。どうやらここにきてまだ迷っているらしい。しかし残すところ今日一日。今更、後悔はしたくない。

 水ぶくれができた足の指にバンドエイドを張り、最小限の荷物をナップサックに詰め替えるとホテルを後にした。そしてボストンバッグを駅のコインロッカーに入れると、山陽本線で小倉駅へ向かった。駅近くにあるはずの目的の店舗――初日に新幹線のホームで看板を見たインターネットカフェは程なく見付かった。

 インターネットカフェの利用は初めてだったので、カウンターで店員に利用方法を聞き、奥へと進んだ。そこは不思議な空間だった。パーティションで区切られた一畳ほどの空間一つ一つにPCとリクライニングチェアが備え付けられており、部屋の周囲は漫画や雑誌の本棚で埋め尽くされている。一角にはセルフサービスのドリンクバーがあり、時間内は自由に飲めるようだ。辺りを見回しながら、これはカプセルホテルと同じ感覚だなと思った。

 指定された席に座りPCを起動すると、とりあえずメッセンジャーを立ち上げてみた。だが案の定、チトセはログインしていなかったので、当初の予定通りメールでメッセージを送ることにし、テキストエディタを起動した。

 ディスプレイが煌々と輝く薄暗い空間にカタカタ、カタカタカタとキータッチ音が響く。書いている内容とは裏腹に、意外なほど僕の心は静かだった。特に前もって考えていたわけではないが、頭で考える前に指先が動く、そんな感じだった。

 我に返ると、いつの間にかかなりの長文になっていた。だが全てをメールに託す気はない。本当に言いたいことは自分の口からと初めから決めていたはずだ。それまで書いていた文章を全て削除して大きく深呼吸すると、気分転換にと、チトセと同じ年齢だった頃の自分を思い浮かべてみた。

 ――そういえば、初めてラブレターを書いたのもちょうどその頃。確か高校一年の夏だ。相手は別の高校に進んだ中学の同級生。忘れようと思っても忘れることができず、中学時代に伝えられなかった思いを必死で書いた。だがとにかく感情が先行してまともな文章にならず、書いては消して、書いては消してを幾度となく繰り返し、三晩掛かってようやくそれなりの文章になり、封書に入れて投函した。結果は惨敗だったが、今となってはいい思い出だ。

 両親が割と早婚なこともあり、当時の僕は三十歳にもなれば当然、結婚していて、子どももいるに違いないと思っていた。少なくとも十五年も十六年も未来の自分が同じようなことをしているとは想像できなかったに違いない。チトセは、その想像ができない年齢差の相手と会ってくれるだろうか。いや、会って欲しいからこうしてメールを書こうとしているのだと自分に言い聞かせ、再びキーボードに向かった。

 一通り書き終えると、ウェブメールサービスにアクセスし、先に書いた本文を貼り付け、簡単に推敲してから送信した。処理完了のメッセージを確認後、リクライニングチェアに体重を預けて目を瞑り、小さく息を吐いた。

 今更だが、最初からこうすればよかったのかもしれない。

 あとはチトセがこのメールをいつ読んでくれるか、ただそれだけが気掛かりだった。

 こんにちは。

 三日振りになりますが、もっと時間が経ったような気がします。元気でしたか。

 下関から少し離れ、小倉にあるインターネットカフェからこのメールを書いています。

 先に謝っておきます。――ごめん。

 本当は直接、会った時に言おうと思っていたけど、会えないかもしれないという気持ちに負けてしまい、このメールに書くことにしました。

 メールやチャットでしかやり取りしたことがないので、顔も声も知らないし、住んでいるところも年齢も全然違うけれど、――それでも一人の女性としてチトセのことが好きです。

 自分から会いたいと言いながら、実際に会ってみたら失望されるかもしれないという不安があるのは確かです。でも、チトセに会いたいという気持ちに偽りはありません。直接、会って話をした上で自分の気持ちを確かめたい。これが今の僕の正直な気持ちです。

 このメールを送ったら、また下関に戻ります。

 おとといは吉見海岸で海水浴をし、昨日は唐戸と市立美術館に行って来ました。最終日の今日は、とりあえず長府にでも行ってみようかと思っています。

 もし会ってくれる気になったら、携帯電話まで連絡を下さい。

 それではまた。

 昼食後、下関駅に戻った僕は、気持ちを切り替えて下関観光の続きをすることにした。

 予定通り最終日の目的地は長府とした。ここは仲哀天皇が熊襲平定に際し建設した豊浦宮があった地とされる。また中世まで長門国の国府が置かれ、江戸時代には長州藩の支藩として栄えた城下町である。位置的には前日に訪れた市立美術館から更に北に進んだところにあり、現地までバスで行くことにした。

 長府城下町のバス停で下車し商店街を抜けると、石畳と練塀が続く小道に変わった。今まで気が付かなかったが、無数のアキアカネが空を飛び交っている。まだ夏はこれからだと思っていたが、こうして少しずつ季節は秋に向かっているのだろう。少し早い初秋の足音に耳をそばだてつつ、城下町風情を味わいながらゆっくり歩いた。

 まずは忌宮神社(いみのみやじんじゃ)に行った。先に書いた豊浦宮の跡と伝わる場所で、ちょうど「数方庭祭(すほうていまつり)」の期間に当たり、準備中の屋台や大幟(おおや)と呼ばれる大きな竹、切籠(灯籠)を吊す笹が境内のあちこちに立ててあった。

 賽銭代わりに購入したパンフレットによると、この祭りの由来は次の通りである。豊浦宮に新羅の将・塵輪(じんりん)に率いられた新羅・熊襲の連合軍が押し寄せてきた際、仲哀天皇は自ら弓を取ると塵輪を射殺し、敵の軍勢を退けた。この時、勝利を祝って皇軍が矛を翳し、旗を振って討ち取った塵輪の周りを踊ったのが祭りの始まりと伝わる。毎年八月七日から十三日までの間、毎夜、大幟や切籠を手にした人々が塵輪の首を埋めた場所(鬼石)の周りを踊るらしい。だが、残念ながら今日の新幹線で帰らなければいけないので、祭りの様子を想像しながら境内を歩いた。無計画な旅行はこういうところが悔やまれる。

 次に長府毛利邸を訪れた。明治に建てられた武家屋敷で、邸宅・庭園共に雰囲気が落ち着いていた。夏休みの宿題なのだろう、何人かの中学生が縁側で熱心に庭の景色を写生していた。

 続いて向かったのは巧山寺。鎌倉末期の開山後、この地方の歴史にしばしば名を残す臨済宗の寺である。南北朝時代に京都を追われた足利尊氏が寄進をした記録があり、当時から付近の政治的・軍事的拠点となっていたことが窺い知れる。戦国時代には周防・長門を統一した大内氏に安堵されたが、大内氏が滅んだ後は毛利氏の庇護を受け、後年、初代長府藩主・毛利秀元の菩提寺となった。また幕末に高杉晋作が挙兵した場所としても知られている。山門・仏殿だけでなく周りの木々までが荘厳で素晴らしく、多くの観光客がその一つ一つに足を止めて溜息を漏らしていた。ちなみに敷地内に幕末・維新の資料を収蔵する長府博物館があったが、訪れた日は休館日だったので残念ながら見学することはできなかった。

 巧山寺から少し東に下った場所に笑山寺という名の寺があった。ここも長府毛利家の菩提寺の一つで、一風変わった寺号は秀元の父・元清の戒名「洞雲寺笑山常快」が由来とのことである。このユニークな法名が贈られた元清という人物はどのような人となりだったのだろう。多くの家臣に愛された殿様だったのだろうか。先の巧山寺に比べると仏閣に威厳がなく、また歴史的に見てもさほど重要な場所ではないためだろう、観光客は自分一人だけだった。だが、どこか柔らかい印象の構えが個人的に気に入り、静かな境内でしばらく時間を過ごした。

 その後、何ヶ所か史跡を回ったが、太陽が西の空に傾き始めたのを機に下関駅へと戻ることにした。バスに乗り、薄紅色に染まる瀬戸内海と空を眺めているうちに、忘れようとしていたチトセへの思いが再び胸を占め始めた。

 ――もし自分がチトセの立場だったらどうしただろう。仮に好意を抱いていたとしても、年が離れた見知らぬ異性に会うには勇気がいる。相手に対する勇気、そして自分に対する勇気。それらをクリアできるほど二人の関係は進んでいただろうか。今、この状況から考えれば、答えは「否」だろう。出発直前になって、「部活でひょっとしたら行けないかもしれない」と連絡が入った時点で、この結末は予想できていたはずだ。そもそも最初から一人芝居だったのかもしれない。

 あれこれ考えていても、タイムリミットを切ってしまっては仕方ない。ナップサックから文庫本を取り出し、意識をそちらに向けるように努力した。

 下関駅に到着後、コインロッカーからボストンバッグを回収し、すぐ小倉駅へと向かった。新幹線の発車時刻までそれほど余裕がなかったので、構内のハンバーガーショップで手早く夕食を済ませ、指定のプラットホームへと向かった。

 ホームに着いて電光掲示板を見上げると十九時十八分を示していた。出発時刻までおよそ二十分、そろそろ車両が到着する頃だ。向かいのホームにいる人々を眺めながら、時間が過ぎるのを待った。

 突然、携帯電話が鳴り出した。会社からの緊急コールかとポケットから取り出すと、青く光るサブディスプレイに「公衆電話」の四文字が表示されていた。

 思わず息をのむ。僕は慎重に開いて通話ボタンを押し、耳に当てた。

「もしもし?」

「…………」

 しばらく待ってみたが相手は黙ったまま返事をしなかった。耳をすましても聞こえてくるのは、ざわざわという喧噪。だが電話を掛けてきている相手に確証があった。高まる胸の鼓動を感じながら、僕はゆっくりと尋ねた。

「チトセ?」

 返答はなかったが、否定もしなかった。チトセに違いない。

「今、どこ?」

 しばらくして、遠慮がちな声がようやく返ってきた。

「……十三番ホーム、キオスク裏の電話ボックス」

 その意味を理解するのにほとんど時間は掛からなかった。

 振り向くと人波の合間から一瞬、それらしき人影が目に入った。

「分かった、すぐにそっちに行く!」

 電話を切りバッグを担ぐと僕は駆け出した。

 チトセにもうすぐ逢える。

 人波をかき分けながら、僕は最初の言葉を捜していた。