待宵草

 午後十一時、仕事を終え、ようやく寄宿舎の部屋に帰った僕は、コンビニの袋と鞄、そして脱いだ背広ををベッドの上にそっと置き、ネクタイをゆるめ、カッターシャツの第一ボタンを外した。

 大きく深呼吸をし、よどんだ部屋の空気を胸一杯に吸い込む。

 これから寝るまでの短い時間、誰にも邪魔されない、僕のプライベートの時間が、この瞬間から始まる。

 僕は部屋の中央にある円形の小さなテーブルの前に、あぐらをかいて座った。畳を構成するい草の一本一本が、ズボン越しに伝わってくる。

 ノートPCのディスプレイを開ける。USBケーブルで携帯電話とつなぎ、電源を入れた。OSの起動を確認してからログインし、プロバイダに接続。そして、コネクションと同時にメーラーを立ち上げた。

 そして、メールが一件届けられたのを確認すると、すぐに回線を切断した。

 早速、受信したメールを開いてみた。

From : サユリ

Subject : おかえりなさい

お仕事、ごくろうさま。

帰ってきたら、ケイタイにメールちょうだいね。

1時くらいまでは起きて待ってるよ。

 発信者の「サユリ」こと牧野早百合は、僕の彼女である。

 僕が彼女と初めて出会ったのは、大学三年の春。当時、所属していたテニスサークルの副部長になったばかりで、希望と不安を胸に一緒に抱えながら、充実した学生生活を送っていた。そんな時に、サークルの入部説明会に訪れた彼女と知り合った。

 こんな事を言うと彼女に笑われるかもしれないが、僕らは初めて顔を合わせたその瞬間から互いに惹かれ合い、すぐ心を許し合える仲となった。そして、その年の夏の合宿の場で、彼女から告白を受けると、そのまま当然のように、二人は恋人として付き合うようになった。

 ――月日は流れ、今年の春。

 彼女は大学三年生になり、一方の僕は卒業と同時に、とある家電メーカーに入社し、茨城県つくば市にある研究所に配属になった。結果的に、二人は離ればなれになってしまったが、その後も関係が途切れる事はなかった。

 多分に漏れず、遠距離恋愛を始めて最初の一ヶ月は、毎日のように、夜も遅くまで電話をした。ほとんど徹夜に近い状態で、頭が朦朧としたまま、研究所に出かける事も少なくなかった。

 しかし、今では長電話はおろか、電話口でやり取りする事すらほとんどない。

 その代わり、携帯電話でのメールでのやり取りが、二人の日課になっている。

 元々は、電話代の節約、そして彼女が「声を聞くと涙が出るから」という理由で、やむなく始めたこのシステムも、慣れると案外便利な事が分かってきた。

 送受信の時間差を利用し、互いに相手の都合に合わせたやり取りが出来る。それに、必要があれば、先程のようにインターネットメールに文章を送る事も可能だ。

(余談になるが、以前に「早百合もパソコンを買ってチャットをしようか」という提案をした事があったが、これに関しては、彼女は今もあまり乗り気ではない。一番の理由は、僕には携帯電話しか通信手段がない為。「それなら直接電話で話をした方がいい」――彼女の言い分、ごもっともだ。)

 そんな訳で、二人の間の連絡は、今でも携帯電話を使った短いメッセージのやり取りだけでほとんど事足りていた。

『ただいま。いま帰ったよ』

 最初のメッセージを打ち込んだ後、ひとまず携帯を机の上に置き、僕は台所へと向かった。冷蔵庫から冷えた烏龍茶のペットボトルをとり出して、グラスに注ぐ。その時、携帯がピピッと短い電子音を発した。メールを受信した合図だ。

 琥珀色の液体が入ったグラスとペットボトルを手に居間に戻った僕は、今届いたばかりのメールを確認した。

 予想通り彼女からのメッセージだった。

『おかえり。いつもより遅かったね。忙しいの? 夕ご飯は食べた?』

 乾いた喉を烏龍茶で潤しながら、僕は返事を書いた。

『忙しさはあいかわらず。夕飯はこれからコンビニ弁当。食べ終わるまで15分くらい待っててくれる?』

 メッセージを送信すると、すぐにその返事が返ってきた。

『りょーかい。じゃあまた後でね』

 ――約十五分後、宣言通りにささやかな食事を済ませた僕は、お気に入りのJポップが入ったMDをミニコンポにセットし、再び携帯を手に取った。

『お待たせ。食べ終わったよ』

『お弁当、おいしかった?』

『いまいちだね』

『コンビニじゃしかたないよねえ〜』

『でも早百合の手料理よりはおいしいかな?』

『サキノハツゲン、タダチニテッカイセヨ』

 ……僕は思わず飲みかけのお茶を吹き出しそうになった。

 慌てて返答を送信する。

『ごめん、ほんの冗談だってば』

『わかればよろしい』

 それから僕らは、お互いの今日の出来事、そして最近始まったばかりの、深夜のミステリードラマの話に花を咲かせたが、その最中、何の前触れもなく、本当に唐突に、彼女からそのメッセージが届いた。

『今から電話かけてもいい?』

 ……え?

 返事をどうしようかと考える間もなく、携帯の着メロが鳴った。

 青いバックライトのディスプレイに彼女の名前が浮かび上がる。

 僕は苦笑しながら、通話ボタンを押した。

「もしもし?」

「えへへ。早百合です。お久しぶりー」

 弾んだ声が受話器から聞こえてきた。

「ねえ、元気だった?」

「あのさあ、お久しぶりもお元気も何も、さっきまでメールで話してたし、それに、先々週、会ったばかりじゃなかったっけ」

「もう、一週間以上も声を聞いていなかったら、久しぶりでしょ!」

 ちょっと拗ねたような、それでいてどこか楽しそうな彼女の声が、耳に嬉しかった。

 しかし、言われてみると、確かに随分と久しぶりに彼女の声を聞いたような気がする。僕は、ついさっきまでごく当たり前だと思っていた文字でのやり取りが、急に色醒めてゆくのを感じた。

「……でも、ごめんね。何か急に声が聞きたくなっちゃって、つい電話かけちゃった。――迷惑だった?」

「いいや。全然迷惑なんかじゃないよ。本当の事言うと、僕も早百合の声が聞きたかったんだ」

「ふうん、どうだか」

「ホントだってば」

 僕らは同時に吹き出した。

「それはそうと、ねえ、何話そっか」

 うきうきした声で彼女は言った。

「何だ、突然、そっちから電話かけてきたのに」

「いいじゃない。そっちで考えてよ」

「うーん、そうだなあ……」

 大抵の事は互いにメールで報告済み、それに今更さっきのテレビの話もする気が起こらない。話したい事がたくさんあったはずなのに、いざ電話となると思い付かない自分が、もどかしい。――僕はふと、付き合って間もない頃の、どこかぎこちなく、だけどいつもときめいていた時分の二人に戻ったような、錯覚に陥った。

「あ、そうだ」

 突然、彼女は声を上げた。

「ねえねえ、そこから外、見えるんだっけ?」

「いや、カーテンもガラス戸も閉まったままだから見えないよ」

「じゃあ開けてみてよ」

「どうして?」

「いいからいいから」

 僕は彼女に言われるまま、南側に面した窓に向かうと、片手で止め金を外し、錆び付いた重いガラス窓を開け放した。

 次の瞬間、ひんやりとした外気と共に、心地よい虫の音が部屋に流れ込んできた。

 気が付けば九月。暦の上ではもう秋なのだ。昼間は、夏を惜しむ太陽の日差しが照りつけるとも、秋、そして冬の訪れが着実にやってきている事を、僕は改めて実感した。

「へえ、もう秋なんだ。気が付かなかったな」

「それだけ?」

「どういう事?」

 僕は首を傾げた。

「もっとよく見てよ」

 空を見上げた僕の目は、あるものに釘付けになった。

「あ、月だ」

 月齢で言うと十一か十二、レモンのような形をした月が、硬質な山吹色な色彩を周囲に放ちながら夜空に鎮座していた。その形は少しいびつで、満月や半月などの幾何学的な美しさはない。だが、その存在感ある形状から、自然の摂理をぎゅっと凝縮したような、力強い美を感じた。

 僕は思わず嘆息を漏らした。

「すごいや」

「ねえ、やっぱりそっちからも、月、見えた? なかなか綺麗でしょ? ――今ね、窓から、わたしの部屋の中にも月光が差し込んでいてね、すごくいいカンジなの。で、せっかくだから、あなたにも見て欲しいかなーって思ってね」

 早百合は嬉しそうにその様を語った。

 僕はその月をよく見ようと、携帯電話を耳に当てたまま、窓から少し身を乗り出そうとしたその時、寄宿舎の隣にある、空き地に視線がいった。

 そこには、月と同じ色をした小さな花が、一面に咲き乱れていた。

 待宵草。別名、月見草。

 満月時より少し足りない月の光を補うかのように、ほんのり地上を照らしている。

 月と待宵草――絵になる風景だった。

「どう、そこからの景色は?」

「月の欠片が見える」

「ツキノカケラ?」

 予想通りの、彼女のびっくりしたような声に、僕は微笑んだ。

「マツヨイクサっていう草の花が、隣の空き地に一杯に咲いていて、まるで月の破片を散りばめたみたいなんだ」

「綺麗なの?」

「うん。すごく綺麗。切り取って、早百合に見せてあげたいくらい」

「残念、見たかったなあ……」

 俯き加減で、本当に残念そうに顔を曇らせた彼女の姿が、一瞬脳裏に浮かんだ。

「ほら、心配しなくても大丈夫だって。しばらくは咲いているから、今度、こっちに来た時に見ればいいだろう?」

「…………」

「……早百合?」

「…………」

 不意に彼女は口を閉ざし、黙ってしまった。

 ――何かのはずみで機嫌を損ねてしまったのかと、僕は内心慌てた。

 恐る恐る、声をかけてみる。

「ねえ、早百合、……どうかしたの?」

「話は変わるけど、今度の週末、空いている?」

 返ってきた彼女の声は、予想と反し、実にあっけらかんとしていた。

 僕はほっと胸をなでおろした。

「何だよ、急に。今週末なら、土曜日も日曜日もOK。――どうして?」

「じゃあ、土曜日、そっちに行ってもいい?」

「こっちに来る?」

「駄目?」

 僕は小さくため息をついた。

「あのさ、さっきも言ったけど、別に急がなくても、さっきの花ならそんなにすぐには枯れないよ。――それにこの前、僕がそっちに行ったばかりだろ。運賃だって馬鹿にならないから、また今度でいいと思うけど」

「もう、またそんな事言う。いいの、お金払うのはわたしなんだから。それに、大切な日なんだから一緒にいたいの。いいでしょ?」

「大切な日?」

「うん」

「…………」

「分からない?」

「いや、ちょっと待って……」

 ……何だったっけ?

 携帯電話を耳に当てたまま思い出せずに黙っていると、しびれを切らした彼女が先に口を開いた。

「ほら、今度の土曜って満月じゃない」

「ああ、日数的に、丁度それくらい……かな?」

 頭の隅にカレンダーを思い浮かべ、指折りながら僕は答えた。

「んもう、鈍いなあ。満月って事は、つまり、中秋の名月でしょ?」

「あ、そういう事か――」

 ようやく僕は全てを察した。

 受話器の向こう側で、早百合は嬉しそうに笑った。

「ねえ、二人で楽しいお月見にしましょうね」