その手を伸ばして (三)

 二日目の朝。駅前の喫茶店で朝食を済ませるとバスターミナルに向かった。ただチトセからの連絡を待っていても仕方ない、せっかく下関にまで来たのだから有名な場所くらいは回っておこうと、停留所の観光マップでルートを決め、バスに乗った。

 窓枠に頬杖を突き、すぐ後ろに座った老夫婦の素朴なやり取りをぼんやり聞きながら街並みを眺めていると、やがて正面に海が見えてきたのでバスを降りた。手を翳して空を見上げると目映い日差しが目に突き刺さった。昨日よりも暑くなりそうだ。僕が今いるのは、かつて中国や朝鮮との玄関口であった唐戸と呼ばれる地区の少し手前に当たる。

 まだ動き始めたばかりの商店街をぶらりと散策した後、先にチェックしておいた場所を回った。旧下関英国領事館、旧秋田商会ビル、そして下関南部町郵便局。いずれも明治から大正期の建築物だが保存状態がよく、作りがとてもおしゃれで好印象だった。

 その後、海沿いにある唐戸市場に向かった。ちょうど日曜日だったので一般向けに海鮮屋台を開放しており、市場は多くの人で溢れていた。目の前で魚介類が手際よくさばかれ、見る見るうちに色鮮やかな料理になる。威勢のいい掛け声が響く中、一つ一つの屋台を回り何にしようか散々迷った末に、フク(フグ)のから揚げと海鮮ちらしを買い、屋台横のベンチに座って食べた。食材が新鮮だったからだろう、とても美味しかった。

 少し早い昼食を終えた後は、右手に関門海峡を眺めつつ国道9号線を北東に向かって歩き、道沿いの観光ポイントを順に回ることにした。

 初めに立ち寄った赤間神宮は、壇ノ浦の戦いで海に身を投げた安徳天皇を奉葬した神社である。耳なし芳一が住んでいたとの伝承もあるようだ。日本の神社というと檜や萱などの建材をそのまま生かした素朴なものが多いが、ここは丹と白を基調とし、どこか竜宮城を髣髴させる中国風の煌びやかな作りだった。パンフレットの説明によると過去に何度か焼失しているそうだが、建立当時からこのような構えだったのだろうか。一方、すぐ隣の敷地にある平家一門の墓は、かつて世に名を知らしめた人々の墓標というにはあまりにも粗略な扱いで、予め知らなければ見逃すに違いないほどだった。「栄枯盛衰」の四文字が脳裏に浮かんだ。

 赤間神宮の辺りからも見える関門橋は、本州と九州をつなぐ大きな吊橋で、ちょうどこの辺りの海域が壇ノ浦になるらしい。目の前を阻む潮の流れは思いのほか速く、決して穏やかではないが、それでも手を伸ばせば向こうまで届くのではないかと錯覚するくらい間近に鎮西(九州)の地が見える。ここまで来て敵の追撃を振り切れなかった平氏の無念さはどれほどだろう。また、幕末に英・米・仏・蘭の連合艦隊と長州藩が戦った下関戦争が行われたのもこの海域である。橋の袂に到着してからしばらくの間、橋脚にもたれ掛かり、海流や通り過ぐ大型貨物船を眺めていたが、足の疲れが引いた頃合いを見計らって荷物を担ぎ、再び歩き出した。

 頭上から容赦なく叩き付けられる太陽光とアスファルトからの放射熱に汗びっしょりになり、徒歩で行くのは無謀だったかと後悔し始めたところ、ようやく下関市立美術館に到着した。海を臨む高台に建てられた建物で、美術館にふさわしくシンプルで静かな佇まいである。たまたまエミール=ノルデという画家の特別展をしている最中だったので、これを見学することにした。

 会場は六つのテーマに分類されていた。風景、人物、ダンス、花、幻想、そして「描かれざる絵」。最後の「描かざる絵」とは、第二次世界大戦中、作者がナチス監視下にあった際に隠れて描いた絵画とのこと。なるほど、展示プレートの経歴を読むと、一時はナチスの庇護を受けたものの、後年は逆に弾圧される側に回り、かの「頽廃芸術展」にも数多く出品されたらしい。個人的には初めて聞く名だったが、そこそこ有名な画家のようだ。

 だが正直言って、文句なしに素晴らしいと思えるような作品はなかった。大胆で奔放と言えば響きはいいが、度を過ぎれば稚拙で未熟となる。ここに展示されている作品は、どれもそのバランスが危うい気がした。しかしそれよりも気になったのは、作品、特に人物画に感じる目に見えぬ壁、距離だった。自分の感性が作品を受け入れないというだけでは言葉が足りない。作品が僕個人を拒絶している――そんな感覚である。この違和感をどう説明しようと考えながら、僕はいつしか作者・ノルデの人物像を作ろうとしていた。

 数多くの人物画を描いていることから、そこそこ他人とコミュニケーションが取れることは容易に想像できる。だが、彼の人物画は特異な視点で描かれており、絵画というよりもむしろ劇画や漫画に近い。ありのままに描くのではなく、離れた場所から対象を観察して特異な動きや色を切り出そうとする芸術家としての目、それが作品から感じる距離の実体に違いない。一方、風景画は作者と対象の心理的距離が非常に近接しており、人物画とのギャップが孤独への強い願望を感じさせる。

 また様々な手法・モチーフを用いているが、これは次から次へと溢れ出るイメージを素直に表現したというよりもむしろ、何を描いてもしっくりこなかったために何度もやり直したというのが正解ではないだろうか。そこにあるのは挫折、そして焦燥。以前に見たロートレックの絵から感じたものと同じ匂いだ。

 ――そうか、僕が感じた違和感、それは作品を通じて自分を見ていたからだ。自己嫌悪から来る孤独志向と挫折感、その裏返しとも言える他人への強い好奇心。更に言うならば、チトセと会うことへの不安、会えないかもしれないという不安が精神的負荷となり、結果としてよりネガティブな評価に結び付いたに違いない。何てことはない、作品を見る自分の目が偏っていたのだ。

 もう一度、素直な目で見直そうと、しばらく会場で見学していたが、やがて閉館のアナウンスが流れたので慌てて売店でノルデのレゾネを購入し、バスで下関駅に戻った。

 歩き疲れていた上に、何よりも汗でべたつくTシャツが気持ち悪かったので、早めにホテルにチェックインするとすぐにシャワーを浴び、ゆっくりと湯船に浸かって身体を休めた。風呂から出ると備え付けの寝間着を着て横になり、美術館で買ったカタログを開いてぼんやりと眺めていたが、そのうちに眠気が襲ってきて、ああ、灯りを消さないといけないなと考えているうちに意識が途切れた。

 ふと気が付くと身体が動かなかった。そういえばここ最近、寝ている間によく金縛りにあう。精神的・肉体的に疲れている時になり易いと言われるが、今の僕は後者が原因だろうか。しかもベッドで寝ていると思っていた自分がいつの間にか小さなトウモロコシ畑で立っている。……トウモロコシ畑? 立っている? どうやらここは夢の中らしい。

 どんなに頑張っても手足が動きそうにないので、頭を動かして身体を見回すと、なぜか全身がブリキでできていて、しかも畑に穿たれた杭に十字架に張り付けにされていた。つまり今の僕はブリキのカカシで、ここは「オズの魔法使い」の世界というわけだと、夢の中の僕は納得した。でも確かブリキなのはカカシではなく木こりだったはずだ。とすると、ひょっとしてライオンの臆病さも備えているということだろうか。

 顔を上げると畑の向こう側に大きな川が横たわり、対岸に大きな虹が掛かっている。ノルデが描いたような不思議な色感・質感を持った虹を眺めながら僕は考える。あの虹の袂まで、更にその向こう側まで行ってみたい。なぜだか分からないが、そうすれば何かが変わるような気がする。だがドロシーを待っている間に、きっとあの虹は消えてしまうだろう。そもそも彼女がここを通るという保証はどこにもない。ではどうしたらいいか――そこで僕の思考は停止する。

 あの物語の中でカカシが望んだのは脳、木こりが望んだのは心、ライオンが望んだのは勇気だった。今の僕が本当に望むもの、足りないものは何だろう――?