その手を伸ばして (一)

 プラットホームに降り立った瞬間、焼け付くような真夏の日差しを想像していたので少し拍子抜けした。その代わりに心地よい微風が頬を撫で、何事もなかったかのように過ぎ去った。目を閉じて深呼吸するとほのかに潮の香りがする。確かに目的地に来たのだというささやかな満足感を感じながら、僕はボストンバッグを肩に掛け直し、改札口へと向かった。

 のぞみで名古屋から小倉まで三時間、在来線に乗り換えて二十分。予め到着時刻が分かっていたとはいえ、本州最西端の地・下関にこれほど早く着いてしまうとは思ってもみなかった。コストパフォーマンスを考えなければ日帰りも可能かもしれない。

 駅を出たところで一旦、バッグを下ろして辺りを見回した。日に焼けた健康的な顔立ちの人々が忙しそうに行き来している。八月上旬ということで観光シーズンには少し早いのだろうか、僕のようないかにも観光客な出で立ちの人はほとんどいないようだ。――いや、ここに来るまでは「下関=観光地」と思い込んでいたが、実際は違うのかもしれない。見たところ駅舎自体はそれほど新しくないものの、大きなショッピングモールが隣接し、その周囲には真新しい店舗が立ち並び、ごく一般的な中堅都市といった様相をしている。上手く言葉にできないが、観光を売りにする都市で時々見掛ける、ある種の押し付けがましさは少しも感じない。自分にはこれくらいの方が気楽で助かる。

 さてこれからどうしようかと、ぼんやりと空を見上げながら考えた。実はこうして二泊三日の予定で下関市まで来たものの、特に予定が決まっていない。事前に少しは下調べをしたが、途中で予定が変わるかもしれない、それなら現地に行ってから考えようと、結局、細かな行き先も宿泊先も決めずに来てしまったのだ。確定しているのは新幹線の発着時刻くらいで、その他は何もかもが行き当たりばったりを前提にした旅行である。ほとんど無謀としか言いようのないこのアバウトさは、子どもの頃から少しも変わっていない気がする。

 ジーンズのポケットから携帯電話を取り出して時間を見ると正午少し前だった。朝からほとんど身体を動かしていなかったが、いつもより早く起きたためか、普通にお腹が空いていた。とりあえず昼食ついでに買い物でもしようかと、荷物を担いだまま目の前のショッピングモールへと向かった。

 土曜の昼間ということで店内は多くの買い物客で賑わっていた。買い物を楽しむ人々に混じり、ぶらぶらと見て回っていると、たまたまレジャー用品売り場のビーチパラソルに目が止まった。

 ――そういえば、ここ何年か海に行っていないな。

 ――じゃあ海で泳ごう。

 自分でも笑ってしまうような二段論法で当面の目的が決まったので、水着とビーチサンダル、水中眼鏡を購入し、駅員に教えてもらった通りに山陰本線に乗り込んだ。古びた列車に小一時間揺られ、無人駅で下車してしばらく歩くと、緩やかな弓形を描く白い砂浜が見えてきた。

 買ったばかりのビーチサンダルに履き替え、人気のない浜を歩く。歩く度に足の裏から聞こえてくるシャクシャクという音が心地いい。何をするでもなく海風に当たり、目の前に広がる海原を眺めるだけで不思議と気持ちが落ち着いた。

 ふとつま先に当たった丸い小石を拾い上げてみた。風化して表面に無数の穴が空いているが、元はきめの細かい赤茶色の泥岩のようだ。同じような石があちこちに転がっている。この近辺の基盤岩だろうか――そんなことを考えているうちにやがて砂浜は途切れ、岩場に変わった。予想通り岩肌は先の小石と同じ色をしている。滑りそうになる足場に気を付けながら更に進むと、緩やかな波が打ち寄せる埠頭に出た。埠頭とは言っても一〇mほどの防波堤があるだけで、その傍には繋船された小型の漁船が静かに漂っていた。バッグを下ろして辺りを見回すと、今いるのは岬の先端で、先の砂浜――吉見海岸は小さな湾の最奥部になるようだ。

 幸い辺りに人がいなかったので、木陰でさっと水着に着替え、水中眼鏡を付けて海に飛び込んだ。海で泳ぐのは久しぶりだったが、身体は確かに水を覚えていた。表層は冷たくも熱くもなくちょうどいい温かさ。潜るとひんやりとした水温が心地いい。透明度はそこそこあるが生き物の類はあまりいないようだ。

 そのうちに泳ぐのも飽きてきたので、波打ち際で仰向けになり、胸の辺りまで海水に浸りながら日光浴をすることにした。文字通りライトブルーの空から降り注ぐ柔らかな光に目を細め、引いては寄せる波の不規則なリズムに身を任せる。たゆたう波の音、名も知らぬ鳥のさえずり、蝉の声、静かにそよぐ木々の葉――そういった音の数々を子守唄にうとうとしながら、数え切れないほど多くの雑念が浮かんでは泡沫のように消えていった。

 どれくらいそうしていただろうか、いつの間にか日が傾き、山の陰が頭上に落ちてきた。水温も急に下がってきたので海から上がって服に着替え、下関駅へと戻った。

 その日の宿泊先を駅近くのビジネスホテルに決め、チェックインしてシャワーを浴びた後、夕食と湯冷ましのために再び外に出た。

 ぼんやりと考え事をしながら歩いているうちに、街外れの波打ち際に来ていた。たぷんたぷんと、コンクリートブロックに打ち付ける波の音が聞こえる。両手をズボンのポケットに突っ込み、対岸の街明かりと、夜空よりも暗く何もかも飲み込んでしまいそうな漆黒の海面を眺めながら、僕は無意識のうちに、今日一日、一度も鳴ることのなかった携帯電話を手で握り締めていた。

 ――二〇〇四年八月七日。

 チトセに逢うために、僕は下関にやって来た。