静かなる訪問者

 ある土曜の昼時の事である。

 近所のファミレスで昼食を済ませたわたしは、アパートの部屋に戻ると、ベッドで寝転び、帰りがけに買った文庫本を開いた。

 週末の午後はとても無口で、通りの車の通過音さえまばらであった。学生街の中心にあるこのアパートは、多分に漏れず住人のほとんどがわたしと同じ学生なのだが、せっかく天気のよい休日を部屋で過ごそうとする者は少ないのだろう、空間そのものが化石のように静まり返っていた。

 ――読み始めて二三十分ぐらい経った頃だろうか。区切りのいいところまで読み終え、ふと意識をページから離したところ、軽やかな電子音が聞こえて来る事に気が付いた。

 最初は、携帯電話の着メロか、目覚し時計のアラームかと思ったが、断続的なリズムを刻んでいる事からそうではないらしい。頭をもたげ、鼓膜に神経を集中させると、それは上階から聞こえる、インターフォンの音である事が判明した。しかもその音源となっている人物は、インターフォンのボタンを連打するだけでは飽き足らず、時折ドアを乱暴に叩きながら、部屋から部屋へと移動しているようである。

 ――週末になると、宗教の勧誘やら訪問販売やら、そういった類の人々が、代わる代わるわたしの自由時間を邪魔しにやって来る。今のアパートで一人暮らしを始めて約一年。これまでに何度も彼らに煮え湯を飲まされてきた。最近は少しずつ要領を得てきて「居留守」という手段を用いる事に躊躇いを感じなくなってきたが、それでもまだ慣れたとは言い難い。

 そうこうしているうちに、件の人物はこの階へとやって来た。

 次第に近づく、ヒステリックなインターフォンとノック音。わたしは落ち着かない心臓の鼓動を感じながら、息を飲んで、一刻も早く騒音が通り過ぎるのを待ち望んだ。

 ……四……三……二……一……。

 引きずるような足音が、わたしの部屋の前で止まる。続いて、呼び鈴の連打、そして鉄扉への拳打が始まった。

 不快な騒音に耐え切れず、枕で両耳を塞ごうとした時、誤ってベッドの上にあった目覚まし時計を肘で引っ掛けてしまった。

 黒いブリキの時計は、わたしの目の前でゆっくりと空中を舐めながら落下し、フローリングの乾いた表面で二度バウンドして、果てた。

 その音は、扉の向こうの訪問者に対し、居留守を確証させる要因となり、ドアの咆哮はより一層激しさを増した。いたたまらなくなったわたしは、やむを得ず戸口に向かい、扉を挟んで応対する事にした。恐る恐る喉の奥から声を出す。

「……どちら様ですか?」

 ノックが止まり、一瞬の間の後、意外と優しい声が返ってきた。

「こちら、川本さんのお宅でしょうか?」

 声からすると相手は恐らく三十代から四十代くらいの男性。どことなく愛嬌のある響きである。――もっとも、有能なセールスマンで愛嬌のない者はほぼ皆無であろうが。

「ええ、確かに川本ですが」

 わたしは、素っ気無い返事を目の前の白い扉にぶつけた。そんな事くらい、表札を見れば誰にだってわかる。

「わたしに何の用ですか?」

 あくまでも警戒心は保ったままである。一度でも隙を見せたものなら、彼らはしつこく食い下がる――数度の体験から導いた経験則である。

「ガスの検針に参りました」

 一瞬どきりと波打った心音を最後に、胸の中のわだかまりが、すっと引いていくのが自分でもわかった。

「申し訳ないですが、お部屋の中に入れて頂けませんか?」

「あ、はい、ただ今……」

 慌ててロックを外し、ノブに手を掛けたその時、ある考えが頭を過ぎった。

(ガスの検針をする為に、わざわざ部屋の中に入る必要があるか――?)

 間髪入れず指先に「否」という答えが返ってきた。反射的にノブを手前に戻す。

 しかし、それは一瞬遅かった。

 下がまちに黒光りする革靴がねじ込まれ、同時に、半開きの扉の隙間から、ぬっと男の左手が侵入してきた。

 懐疑が恐怖に変わる。

 僅かな空間から覗く男の顔は、笑顔を作りながらも、その腹の内は計り知れない闇を含んでいるように感じられた。

「ほんの少しのお時間で構いませんので、話を聞いて貰えませんか」

 それは尋ねているというよりも、半ば脅迫しているような口調であった。

「五分程度で済みますので」

「い、いえ、結構です!」

「そんな事仰らずに、お願いしますよ」

 相手の腕力に及ばず、扉は次第にこじ開けられつつあった。

 恐ろしくなったわたしは、部屋の中に差し込まれた靴先を、渾身の力を込めて踏み付けた。

 ――ギャッという叫び声。

 男の手足が退避するのを確認する前に、叩き付けるようにドアを閉め、震える手で鍵とチェーンロックを掛けると、部屋の奥へと走った。

 背中から怒り心頭の罵声が追い掛けて来た。

「ふざけんなバカヤロウ! 出て来いッ!」

 わたしはベッドの上に上がると布団を頭から被り、ただ時間の過ぎるのを待った。

 喧騒止まぬ扉の裏側は、いつまでも敵意を顕にしていたが、しばらくすると男は諦めたのか、足音が遠退き、再び元の静寂な時間に戻った。

 わたしはベッドから降り、キッチンに向かうと、冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを取り出し、そのままラッパ飲みした。

 同日の夕刻。

 わたしはスーパーで夕食用の買い物を済ませ、アパートに帰ってきた。部屋の前に立ったわたしは、買い物袋をぶら下げたまま、空いた片手でジーンズのポケットから鍵を取り出そうとしたその時、あるものに気が付いた。

「…………?」

 一旦、買い物袋を下に降ろし、指でそっと触れてみる。

 ――赤い、丸いシール。

 小指の爪より一回り小さいサイズ。文房具店などに行くと必ず売っている事務用のシールである。それが、わたしのプレートの下にちょこんと張ってある。

 どうしてこんなものが……?

 指先を使って丁寧に剥がす。

 人差し指の先に乗った、赤い丸。まだ糊は生きている。

 それをぼんやりと眺めていたところ、ちょっとした悪戯を思い付いた。

 荷物をドアの前に置いたまま、右隣の部屋の前まで移動すると、そのシールを「吉川」と書かれた表札に張り付けた。

 ――これを見付けた隣の人は、どう思うだろう。

 目を丸くして表札を見上げる様を想像し、思わず頬がゆるむ。

 わたしは何だか楽しい気持ちで部屋に戻った。

 翌日の朝――と言っても昼に近かったが、人々のざわめきと、インターフォンの音でわたしは目を覚ました。

 薄手の上着を羽織り、鏡の前で着衣と寝癖を簡単に直した後で、玄関に向かいドアを開けると、二人の警察官が敬礼をしながら戸口に立っていた。一人は小柄の中年、もう一人は背の高い若い男である。彼らの後ろから、近所の主婦や子ども達の顔が見え隠れしている。

 ――何かあったのだろうか。

「お休みのところ、ご無礼申し訳ありません。A県警N署の者です」

 穏やかな笑みを浮かべた中年の警官が、警察帽を脱ぎながら言った。

「失礼ですが、川本真琴さんですか?」

「は、はい」

 わたしは二人の顔を交互に見た。

「あの、わたしに何か――?」

「少しばかりお尋ねしたい事があるのですが、ご協力お願い出来ますか?」

「え、ええ。別に構いませんが」

 中年の警官が目で合図をすると、隣の年若い警官は手帳とボールペンを取り出し、真剣な表情で言葉を継いだ。

「昨晩はこちらの部屋にいらっしゃいましたか?」

「はい、夕方に買い物に出かけましたが、それからは外に出ていません」

「夜半から今朝に掛けて、何かの異常に気付きませんでしたか?」

「異常、ですか」

 わたしは頬に手を当て思い返してみたが、心当たりはなかった。

「いいえ、特には」

 若い警官は軽く頷くと、手帳に何やら書き込んだ。

「それでは、隣の二〇五号室の吉川弘さんとは面識がありますか?」

「この部屋に引越した時に、簡単に挨拶はしましたが、それきりです」

「つまり、昨夜は吉川さんとお会いになっていないという事で間違いありませんね?」

 わたしは相手の質問の意図も目的も読めず、ただ正直に無言で頷いた。

「わかりました。今度はこちらの写真を見て頂けますか」

 ――思わず息を飲む。

 差し出されたそれは、昨日のセールスマンの顔写真であった。

「本日午前三時頃、吉川さんが、ベランダから進入した何者かに刃物で腹部を刺され、間もなく出血多量で亡くなられています。被疑者はこの写真の男、宮間忠志という寝具を取り扱う訪問販売員です」

「…………」

 不意に立ち眩みに襲われ身体がよろめき、思わず壁に手を突いた。

 中年の警官が心配げに顔を覗き込んだ。

「ご気分悪そうですが、大丈夫ですか?」

「……だ、大丈夫です」

「突然の事で驚かれて当然ですが、ご安心下さい。申し遅れましたが、被疑者の身柄は拘束済みで、現在、署の方で取調べを行っている最中です」

 中年の警官は、本当に申し訳なさそうに頭を下げた。

「ただ、少しばかり困った事がありまして、容疑者の供述が曖昧な上に、事件発生時の証言者がまだ見付かっておりません。そこでお願いがあるのですが、どんな些細な事でも構いませんので、本件に関してご存知の事がありましたら、私どもに教えて頂きたいのですが――」