苺を半分

 微かに初春の香りを含んだ肌寒い夜風。その流れに逆らいつつ、僕は自転車のペダルにゆっくりと力を入れている。心なしか、通り行く空気が重い。

 腕時計を見ると、三本の針が十時を少し過ぎたところで止まっている。

 時刻が時刻なだけに、通りにはほとんど人影がない。途中、コンパ帰りの大学生と散歩中の中年の男性以外に出会った記憶がない。しかしそれでもなお、人気の少なさそうな、賑わいの少ない通りを意図的に選ぶかのように、自転車は乾燥した路面を走っていた。

 ……僕の全身の筋肉は自律神経に支配されていた。

 ふと気が付くと、知らない場所に、いた。

 やむなく自転車を止め、周りを見回す。すると、それまではただの背景にすぎなかった街並みが、突如として菜種色の電灯に照らされて鮮明に浮き上がる。

 コンビニエンスストア。パチンコ屋。ガソリンスタンド。古本屋。

 記憶の限りを総動員し、あやふやな地図をその隅に書き留めながら、頼りない位置確認を行う。だが、それが終わる前に、再び自転車を押して走り始めてしまう。――そんな事を幾度ともなく繰り返していた。しかし、それでも本人は、本能的に自分の位置が分かっていて、最終的な目的地から離れたり近づいたりしながら、計画的に真夜中の街をさまよっている、――つもりだった。

 僕はこの時、夜風を浴びながら、混乱の渦中にある頭の中を整理しようと懸命になっていた。他の人間から見れば、よほどセンチメンタルな人間か、もしくはよほど陰鬱な人間かのどちらかに映っていたに違いない。

 自転車を止めてしまって、どこか静かな場所で落ち着こうと思ったのも、一度や二度ではない。しかし、ここで足の運動をやめてしまえば、より一層思考の収拾がつかなくなる事は明らかである。ましてや、重い溜息をついて空を見上げても、都会の夜空は地上の光で白濁し、無表情に僕を一瞥するだけで何の解決策をももたらしてくれない。だから、僕は自転車に身を任せていた。他に方法が見付からなかったのだ。

 ――タイヤが歩道の段差を通過する度に、僕の身体はかくんと上下に揺れ、少し遅れて背負ったリュックサックが微かに寝息を立てる。……僕の悩みの原因の全ては、このリュックの中身にあった。

 苺のパック。

 今朝、近所のスーパーの開店と同時に買った、小粒の苺である。特価298円の値札を額に張り付けて入り口付近に放り出してあったものである。――確かに、そのスーパーにはより大粒で甘そうな苺もあって、最初はそちらを買うつもりだった。しかし、僕はあえてそれらを避け、一番安いものを選択した。

 彼女達は、どことなく暗く不敏なイメージを持ち合わせていて、詩的な静物であった。互いに肩を寄せ合い、密閉された空間の中でけなげに生きている。あるものは子ども達の口に入り、あるものは糖と共に砕かれてジュースとなり、またあるものは売り残り廃棄され……。そういった運命を想像しながら僕はレジへと持っていった。ただ、幾つも並んでいる少女達の中で、最も見栄えの良さそうなものを選ぶのには少しばかり時間をかけたつもりである。その程度の贅沢は僕にも許されると思ったからだ。

 ちなみに、今僕が持っている苺パックは、値札とラップが剥がされ、包装が購入時と別のものに変わっていた。この一連の儀式によって、「スーパーで買った安物の苺」は「他人からもらった苺」となり、僕の手元から放れる手はずとなっていた。

 それにしても……。

 苺の重さを背中で感じながら、僕は少し頬を緩ませた。たった三百円程度の果物が、これからの僕の人生を左右するかもしれないほどの力を持っている。そう考えると、何だか不思議な、おかしな気分になるのだった。

 僕は、今、この赤い宝石を手に、彼女のアパートへと向かおうとしている。