鰯の最期

 彼は網に絡まった左の鰓が苦しくてたまらなかった。

 網がぐいっと引かれる度に、鰓はちぎれるように痛んだ。仲間の身体が、覆い被さるように彼の身辺を取り囲んでいた為、身動きすら不可能であった。次第に海上へと上昇する漁網の中、彼は成すすべがなかった。もはや水中での呼吸が出来ない状況に追い込まれていた。

 水揚げされた網の中に、彼はいた。

 ――息が、苦しい。

 何トンという加重が彼の身体にかかっていたが、それにもかかわらず、その時彼は確かに生きていた。しかし、それも時間の問題であった。

 彼は消えゆく意識の中で、先程聞いた漁師達の言葉を反芻した。

『……いやあ、何でもこいつら、鯨の餌になるんだってよ』

『くじらぁ?』

『そうだ、鯨だ。――IWC(国際捕鯨委員会)の奴等が、日本に五百頭の鯨の保護を要請したんだってよ。まったく、そんなくだらん事を強要するIWCもIWCだが、受ける政府も政府だ。何様だと思ってるんだ、あいつ等は!』

 彼は無性に腹が立ってきた。

 ――自分は鯨の餌になる……。

 弱者が強者の餌食になるのは自然の法則であり、やむを得ない。しかし、人間達の「環境保護」という名の道楽に付き合わされて死ぬのは、彼の本望ではなかった。おまけに、単なるペットの餌になるならまだしも、「自然の秩序を回復させる」為に鯨に餌として命を捧げるような運命を、彼は憎んだ。

 ――覚えていろよ、人間共。

 いつか必ず……。

 鰯は声にならない呪歌を歌いながら、静かに目を閉じた。