カレーでGO!

カレーでGO!

Illustrated by たかはしけいすけ さん

「博士、今回のテーマは何ですか?」

「学校給食の人気メニューであり、学生やサラリーマン、そして何よりも全国三千万人の主婦の味方である、国民食・カレーライスを題材とする。タイトルはズバリ『カレーでGO!』じゃ」

「何とも安直なタイトルですが、某有名ゲームにあやかろうという目論見でしょうか」

「無意味な分析はよろしい。さて、さっそく本題に取り掛かりたいところじゃが、その前に諸君に一冊の本を紹介したい。料理研究家・森枝卓士氏の著書『カレーライスと日本人』である。薄黄色の表紙が特徴の講談社現代新書じゃ。先にも軽く触れたが、日本の家庭料理の定番メニューとも言えるカレーライスに関して、その定義から歴史まで分かりやすく説明しておる良書である。なお、二〇〇〇年八月十二日にTBS系テレビ『世界・ふしぎ発見!』で同内容の放送をしておったので、書籍が苦手な若輩諸君はこの録画ビデオを入手して見て欲しい」

「あのー、そんなに昔のビデオを入手するのは不可能だと思いますが」

「それならば本を読むしかないの」

「博士、実は結構いいかげんですね?」

「戯れはこれくらいにしよう。さて、今回の講義では、日本のカレーのルーツについて話をしようと思う」

「まずは業界・学界の定説などを教えてもらえますか」

「そもそも、カレーが日本にいつ伝来し、それがどんなものであったかについては諸説あり、誰もが頷く定説というものは存在しない。例えば、ハウス食品のウェブサイトに掲載されている『カレーの歴史』によれば、幕末期に幕府から欧州に派遣された使節団一行が、フランス船上で働くインド人が『飯の上ヘ唐辛子細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にて掻きまわして手づかみで食す』姿を目撃しており、これが日本人のカレーとのファーストコンタクトであったとしている。文久三年、西暦で言えば一八六三年――明治維新の五年前の出来事である」

「このカレーが日本に伝わったのでしょうか?」

「違うじゃろうな。この『手でこね回して食べる』というのはインド式の作法であり、スプーンを用いる日本の食べ方とは明らかに異なる。しかも、先の文献は三宅某という人物の日記だが、インド人の食べ物に好印象を抱くどころか『至って汚なき人物の物なり』と、侮蔑的な目で彼らの食事を見ていた事が分かる。さもあらん、箸で食する事に慣れ親しんだ者にしてみれば、彼らの作法はひどく行儀の悪いものだったに相違ない。これでは食べる気は起こるまい」

「その他の資料ではどうなんですか」

「明治三年にアメリカに留学した物理学者・山川健次郎が、その往路で『ライスカレー』を始めとする西洋食に出会ったと後年に記しておる。だが、西洋食独自の匂いに馴染めず、結局は食さなかったらしい」

「西洋食の匂いですか。確かに和食の醤油や味噌とは違って、肉やバターの香りは獣系の匂いですから、当時の日本人にはきつかったのかもしれませんね」

「確実な資料としては、明治五年に敬学堂主人が書いたとする『西洋料理指南』が、日本で最初のカレーのレシピとしてよく紹介されておる。肉材としてニワトリやエビ・タイ・カキ、そしてなんとアカガエルを使用するとしているところが何とも印象深い」

「あ、あのゲコゲコ鳴くカエル、ですか?」

「いかにも」

「あまり想像したくない味ですね」

「何を言う。確かに現代人には馴染みが薄い食材やもしれんが、日本でも戦後しばらくまでウシガエルを食用として養殖していた事を忘れてはいけない。また現在でも、中華料理やフランス料理ではカエルは高級食材なのだぞ。くせがなく柔らかで、それでいて弾力性のあるあの食感は何とも言えん美味じゃ」

「博士、博士、涎が垂れています」

「……続けよう。同じく明治五年に発表された仮名垣魯文の『西洋料理通』に登場する『カリード・ヴィル・オル・ファウル』が、日本で最初のカレーのレシピだとする文献もある。ここで注目すべきは、『西洋料理指南』と『西洋料理通』の二冊が刊行された『明治五年』という年が、日本カレー史において最も重要な時期であるという事である」

「一体、何があったのですか?」

「禁忌であった肉食が解禁になったんじゃよ。世界的に極めて珍しいケースなのじゃが、仏教徒が大半を占めておる日本では、肉を食べる事は長い間、重大なタブーとされてきた。しかし、文明開化の名の元に西洋文化がどっと押し寄せてくると、その歯止めも効かず、あちこちで公然と肉が食べられるようになった。政府としてはこれを弾圧するわけにはいかなくなったんじゃろう、明治五年の初めに明治天皇が世にも奇妙な『肉食宣言』をし、程なく政府からのお触れとして公式に肉食が認められると、我が国にもようやく肉食文化、ひいては洋食文化を育てる為の下地が出来上がったというわけじゃ。カレーだけでなく、カツレツやコロッケ、オムライスなど、我々がよく口にする洋食の大半は、この時期に輸入され、日本独自の味への改良に成功しておる」

「では、明治以前の人々はベジタリアンだったのですか?」

「それは早とちりじゃ。全く肉を食べなかったわけではない。時期にもよるが、ほとんどの場合、魚や野鳥などは禁止動物の数に入らず、重要な動物性タンパク源として食されてきたし、その他の山の獣も色々と理由を付けて食べられていた。――猪を『山鯨』と呼び『海のもの』として食していたのがいい例じゃ」

「それと同じような話、聞いた事があります。兎を『一匹二匹』と数えずに、鳥のように『一羽二羽』と数えるのも同じ理由ですよね?」

「左様。江戸幕府の五代将軍・綱吉の発した『生類憐みの令』が人々から非難された所以は、当時の日本人が肉食であったからに他ならぬ。しかし誤解なきように断っておくが、熱心な信者の中には一度たりとも動物の肉を口にした事のない者もいたはずじゃ。ただ、そうでない者が多数おったのも紛れもない事実じゃの」

「その辺りの事情は、現代にも通じるものがありますねー」

「さて、この肉食解禁後に公にデビューを果たしたカレーであるが、注目すべき点がある。それは『カレー粉』を用いてカレーライスを作っているという事じゃ」

「何が重要なのですか?」

「カレーの本場・インドでは、それぞれの家庭で百種類以上のスパイスを混合し、調味料として使用する。この作業が料理の要となるのじゃ。ブレンド具合によって地方独自の味、そして家庭の味が出来上がる。従って、日本のスーパーやデパートなどで売っている、ブレンド済みのいわゆる『カレー粉』や『カレー・ルー』なるものは存在しないと考えた方がよい」

「便利なのにどうして使わないんでしょうね?」

「こんな例えはどうじゃろう。日本でも最近はインスタントの『ダシ入り味噌汁の素』があるが、あれを使った味噌汁を飲みたいと思うかね?」

「たまにならいいですけど、毎日はちょっと嫌ですね」

「それに同じ感覚だと思えばよろしい。味噌は味噌、ダシはダシで別々に扱う。それが味噌汁に対する基本的な姿勢じゃ。インドのカレーも同じ事。スパイスを独自にブレンドするところから始めるのが、インドでのカレーに対する基本姿勢なのじゃ」

「つまり、日本に入ってきたカレー粉はインド産じゃないという事ですね?」

「うむ。結論から言えばイギリスのものである。インドを植民地としたイギリスは、時間を掛けながら現地料理カレーを自国の料理に取り込んだ。その過程で、イギリス食に合わせて、手間の掛からぬ混合香辛料・カレー粉が作られたのじゃ。洋食業界では有名な話だが、日本で最初に紹介された西洋香辛料はイギリスのクロス・アンド・ブラックウェル(C&B)社のカレー粉であり、その後しばらく、このC&B社のカレー粉が洋食の定番香辛料として用いられる事になる。だが、大正から昭和の初めに日本国内で安価なカレー粉が生産出来るようになると、カレーライスは爆発的な勢いで庶民に浸透し、国民食と化した。今の日本カレー業界を支える雄のほとんどは、この時期に創業を開始しておる」

「へー」

「余談ではあるが、最近は日本のカレー粉やルーがインドに輸入されているという話を聞く。手軽さが受けたのじゃろう。インドからイギリス、日本に渡り、百年以上の時を隔て、別の文化としてまたインドに戻ってきたというわけじゃな。何とも面白い話ではないか」

「なるほど。明治から西洋食としてカレーが食べられるようになった事から考えると、日本におけるカレーの原点は、幕末から明治の初めくらいなのは間違いなさそうですね」

「それはどうかな」

「というと……ひょっとして、何か新たな発見があったのですか?」

「東京神保町のとある古書店で、日本におけるカレーのルーツを遥かに遡る歴史的資料を発見した。その名も『蘭食事始』、著者はかの林羅山である!」

「あのー、博士。その林羅山って、確か有名な人ですよね?」

「粗忽者、いきなり盛り下げるではない。――林羅山とは、徳川幕府の初代将軍・家康に御伽衆として仕え、その後も秀忠・家光・家綱と四代に渡り幕府に貢献した、日本儒学の祖とも言われる人物じゃ。法令や外交・典礼などに深く関与しておる。身近なところで言えば、林家の家塾からスタートし、後に幕府直轄の機関となった『昌平坂黌問所』は東京大学の前身である」

「つまり江戸初期としては最高水準のインテリだったのですね」

「一言でまとめるとそうなる。その彼が長崎の平戸や出島から発信される異国の情報に興味を抱いたのは当然の事じゃな。まずは序文からご紹介しよう」

【原文】

其れ、西洋の人、漸々我が西鄙に船を渡せしは、陽には交易にせよ、陰には邪教を広めんと欲する所ありてなるべし。故に其の災起りしを、国初己来、甚だ厳禁の事とはなりし。

【現代語訳】

西洋人が我が国の西の果てに船でやって来たのは、表向きの理由は交易であったが、真の目的はキリスト教の布教にあった。後年、このキリスト教が元で戦乱が起きた為、幕府成立の初期より、事実上の入国禁止となった。

「何とも攻撃的な出だしですね」

「人目に触れる事を必要以上に意識したのか、幕府お抱え学者としての血が騒いだのか、この後、キリスト教に関する驚きの放送禁止用語が延々と続いておる」

「大家といえども、やっぱり人の子なんですねー」

「いや、仕方ないというのが正解じゃろう。これが執筆されたのは正保二年(一六四四年)であるが、六年前(一六三七年)に江戸時代最大規模の一揆『島原の乱』が勃発しておる。幕府は四ヶ月もの時間をかけてこれを鎮圧すると、鎖国政策の強化に乗り出した。ポルトガル船の来日を禁止し(一六三九年)、オランダ商館を平戸から出島に強制移転させた(一六四一年)。その後、二〇〇年もの長期に渡り、我が国と西洋との接点が出島のみになる」

「学校の歴史の時間にも勉強しましたね」

「それで、ようやく本題の蘭食のご登場というわけじゃが――」

【原文】

今時、長崎では蘭食と云ふ食物専ら作られ、志を立つる人は篤く学び、無識なる者は漫りに之を誇張す。其の初は出嶋の三好流と云ふ調美の一家なり。此家は、其の初南蛮船の通詞三好庄兵衛と云へる者にて、彼国の料理を伝へ、平戸にて船人に施せしか、其の船の入津禁止せられて後、又紅毛通詞となり、其の国の料理も伝り。其れ賄事の事は其の教え方惣て実に就くを以て先とすれば、翁も彼の家主に従ひ学び、西洋薬膳なる蘭食を取得せり。

【現代語訳】

最近、長崎では蘭食という料理が作られており、志を立てている者は懸命にこれを学び、理解していない者はみだりに誇張している風潮がある。その初めは、出島にある三好流という、料理で名の通った家系である。その祖はポルトガル船で通訳をしていた三好庄兵衛という者で、彼らの食事を学び、平戸で船人達に料理を作っていたのだが、ポルトガル船の入港が禁止されてからは、今度はオランダの通訳となってオランダ料理も学んだと言う。賄いは身体で覚える事が第一であるので、私もこの家の主人に従って学び、西洋薬膳という蘭食の作り方を会得した。

「『西洋薬膳』――これが博士の言う『カレー』ですか?」

「いかにも」

「しかし、カレー本場のインドですが、先ほど、イギリスの植民地だって言っていましたよね。敵国とも言えるオランダやポルトガル経由で日本に入ってくる可能性はあるのでしょうか?」

「仮にも学問の徒ならば思い込みで物事を語ってはならぬ。ヨーロッパとインドの関係は、一五九八年にバスコ=ダ=ガマのインド到着に始まるのだが、その後、彼の出身地ポルトガルだけではなく、イギリス・オランダ・フランスと、大航海時代後半を代表する列強国はこぞってインド進出を狙った。彼等の目的は、肉料理には欠かせない魔法の種子・胡椒である」

「胡椒と金が同じ値段だったという逸話は有名ですねよ」

「うむ。莫大な利益をはらむインドを巡り、列強国の間で激しい争いが繰り広げられたのだが、最終的に勝ったのが大英帝国・イギリスなのである」

「なるほど。つまり、イギリスが牛耳るまでは、オランダもポルトガルもインドと関係があったというわけですね」

「もう一つ注意すべき事がある。そもそも、カレーを食しているのは何もインドに限った事ではない。アジアにはカレー文化を持ち、なおかつオランダ領やポルトガル領であった植民地が多数ある。それらから伝来した可能性を誰が否定出来よう」

「分かりました。もう一点、確認ですが、この『西洋薬膳』がカレーだと断言出来る証拠はあるのでしょうか」

「ある。林家の伝書の一つである『林翁記』という書物に、偶然にもこの『西洋薬膳』のレシピが残っておった。今回は子孫の方に連絡を取り、特別に公開の許可を頂く事が出来た。もちろん本邦初公開じゃ」

●西洋薬膳之製法

鬱金数箇、鷹爪一掴、葱一茎、生姜半箇、蒜少許、罌粟実少々を臼にて粉砕し、水一合に醍醐少少を加へ、旬魚・旬菜を入れ能く煮、後に柚子と塩にて味を調へる。作りたる汁は椀に盛りし白米と混和すべし。

「こ、これは確かにカレーです! 世紀の大発見ですよ、博士!」

「はっはっは。ちなみにこの食材について少し補足しておくと、鬱金とはカレーの黄色い素であるターメリックであり、鷹の爪は赤トウガラシ、醍醐はヨーグルトだと思えばよろしい。当時、日本にはまだなかったタマネギの代わりにネギを、またレモンの代わりにユズを使っている以外は、今のカレーと比べても何ら遜色ない」

「レシピの中にケシってありますけど、これはあの麻薬の原料の事ですか?」

「日本では馴染みが薄い食材かもしれんが、ケシから採取した種はポピーシードと呼び、煎ると香ばしい風味がする事から、菓子類や和食のワンポイントとして、またインドではカレーのスパイスの一つとして使われておる。我々の一番身近な例では、アンパンの上に乗っておる胡麻のような種子がそうじゃ」

「なるほど――と言いたいところですが、『種』ではなく『実』とありますね」

「ふーむ。という事は、アヘン・カレーの可能性も残されておるというわけじゃな」

「もしアヘン入りのカレーだったとするならば、食事時はさぞかし賑やかだったのでしょうね。花の大江戸のドラッグ・パーティーといったところでしょうか。これを食べた人の感想、残っていたら面白いでしょうに」

「いや、それがあったんじゃよ。羅山の門下生に石崎某という者がおっての、今回、この者が書いた『石崎徒然一代記』という日記をも発見しておる。慶安三年(一六五〇年)一月二二日の出来事じゃ」

【原文】

(前略)しかるに、その日朝四つ時ばかり、信勝師、にわかに学寮に来たりて、「今日は汝等に世に稀なる南蛮が料理を持て成さん」と云ひて、門下の者ども廿人ばかりを連れ、師が住みたる屋敷へ行きぬ。

 屋敷に着きたれば、師、「暫し待て」とて、一人内に入りたる。しかる間、屋敷の前にて話どもしてゐたる程に、師、出で来て手招きし、「入り給へ」と云へば、皆入りて、東西に向座に着きぬ。暫しばかりありて、若き女ども、台を持ち参りて我等が前に据ゑつ。それに据うる物を見れば、大きなる漆造の器に、薄黄色なる汁に飯を合はせたるなり。さらに見知りたる食物にあらざれば、若き者ども、「こは何ぞの飯にかあらむ」と騒ぎたれば、師、「これは彼の和蘭国の薬膳なれば、いといみじき物なり」と咲ひて、この汁飯をいとよく食ひつ。

 恐づ恐づ箸を取りて湯漬をすすりたれば、其の汁、いと辛く、烈火の如き味なり。者ども、「あなや、いと辛き飯なり」とて、末の座に至るまで汗水になりて、皆湯など飲みつれば、師、いとをかしがり咲ふ事限りなし。見れば、師、既に皆食ひ果てて、涼しげにゐたるなり。

 されども、懲りざりけるにやあらむ、師、しばしば我等を招き、其の飯を食はさせけれども、極めて嗚呼なる味なれば、門下の者ども林飯とて恐れたり。

【現代語訳】

(前略)その日の十時頃、突然、羅山先生が学寮に現れ、「今日はお前達に珍しい南蛮の料理を食べさせてやろう」と言って、門下生を二十人ほど引き連れて、先生の住んでいる屋敷に行った。

 屋敷に到着すると、先生は「少しそこで待っていなさい」と、一人で屋敷の中に入っていった。その間、屋敷の前で雑談をしていると、やがて先生が来て手招きをして「入りなさい」と言ったので、皆で中に入り、座敷で東西に向かい合って座った。しばらくすると、若い女中達が台を持って現れ、我々の前に置いていった。その上に載っているものを見ると、大きな漆塗りの椀に、薄黄色の汁とご飯を合わせたものが入っている。見た事もない食べ物であったので、若い者達が「一体、これは何の食べ物なのだ」と騒ぐと、先生は「これはオランダの薬膳料理であり、とても美味しいものだぞ」と笑いながらおいしそうに口に運んだ。

 我々も恐る恐る箸を取ってその食べ物を口すると、その汁はとても辛く、まるで火のような味がした。皆は「これはとても辛い飯だ」と騒ぎ、末座の者まで汗だくになり、湯などをがぶ飲みしたが、先生はその様を見てさもおかしそうに笑った。見ると、先生はその飯を全部平らげ、涼しげな顔で座っていた。

 その後も懲りなかったのだろうか、度々、我々を招いてその西洋薬膳を食べさせたが、とても酷い味の飯であったので、門下生達は密かに『林飯』と呼んで恐れたのであった。

「麻薬疑惑に関する証拠がないのは残念ですが、なかなか面白い日記ですね。予備知識なしに激辛カレーを食べさせられたら、きっとこんな風なのでしょう。――ところで博士、気になったのですが、この文献に出て来る『林飯』ですが、ひょっとして……?」

「よくぞ気付いた。彼の言う『林飯』こそが『ハヤシライス』の語源なんじゃよ」

「どしぇー、こ、これは驚きです」

「カレーライスとハヤシライスは、元は同じものだったという事じゃ。考えてもみたまえ。野菜や肉を煮込んだスープをライスの上に掛けて食べるという点はどちらも同じであり、そのスープ自体も材料や調理方法などに幾つも共通点がある」

「目から鱗が落ちるとは、こういう事を言うのですね」

「以上をまとめる。江戸初期の儒学者・林羅山が作った西洋薬膳、その名も『林飯』が日本でのカレーライスの祖であり、なおかつその名は『ハヤシライス』として現代まで生き続けている――という事じゃ」

「……あの、博士。綺麗にまとめられた後で申し訳ないのですが、この『蘭食事始』の最後に変な記述があるので、見てもらえませんか?」

「なになに――『記、平成拾二年菊月』?」

「江戸時代に『平成』なんて年号、ありましたっけ」

「いや、和暦はダブる事はないはずじゃ」

「…………」

「…………」

「…………」

「……というように、贋作には十分注意する必要がある事が分かったかな。ちょうど時間が来たようじゃ。本日はここまでにしよう」

「本日はためになる講義、ありがとうございました」

「では諸君、ごきげんよう」

その後の調査で、文中で引用しておりました「蘭食事始」「林翁記」「石崎徒然一代記」が贋書である事ことが判明致しました。読者の皆様、並びに関係者各位に、多大なるご迷惑をお掛けして誠に申し訳ありませんでした。この場を持ちまして二人に代わり、深くお詫び申し上げます。なお、ハヤシライスの語源に関しましては、和製英語「ハッシュ・ライス(hash rice)」が訛ったという説と、日本橋丸善の創業者「早矢仕有的《はやしうてき》」を由来とする説が有力です。ご参考まで。(編集部)

【主な参考文献】