会戦前夜

 CA八四年七月九日午前十時三十分。アンドリュー・サカキ准将率いる西方支援混成部隊八千は布陣を完了した。――場所は、ルダナン半島北東部の丘陵地帯、バルノイス軍第四部隊の北約300キロメートルの地点である。これで、キャメロン軍は総勢五万二千人となり、バルノイス軍に多少でも数の上で近づいた事になる。しかし、残兵数七万九千のバルノイスが優勢である事に変わりはなかった。

 同日午前十一時五分。

 その仮設本部テントの中で、参謀長ハルトマン大佐は、パイプ椅子の上で足を組みながら、三枚の紙を見比べていた。

 ――バルノイス軍の配置図、ルダナン半島北部地域の五万分の一地形図、及び同地の地質図であった。

 岩相毎に綺麗に色分けされた地質図を見ながら、ロイ・ハルトマンは呟いた。

「……あいつ等も、不幸な場所に布陣したもんだなぁ」

「は――?」

 ハルトマンの独り言に、いつの間にか横に控えていた伝令官が首を傾げた。

「いや、何でもない。気にしないでくれ」

 怪訝な表情で立っている部下に笑顔で応じると、ハルトマンは組んでいた足を解いて急に真顔になった。

「ところでファンダル君、わたしに何か用でもあったのかね?」

「はっ、実は、ジャルニース小将・ウィルソン准将の連名で、再三の作戦要求が届いているのですが……」

「あ、それなら、ほっといといてもらって構わんよ」

 ジャルニースの事だから、前回の失敗を取り返そうと躍起になっているのだろう、ハルトマンはそう踏んでいた。だが、具体的な作戦が教えられていない事に、苛立ちを感じている上級兵が多いのは確かだ。

「まだ作戦会議は始まっていないんだ。もうしばらく詰め所で待機してもらえ」

「あ、あの、しかし……」

 うろたえる伝令官に、ハルトマンは片目をつぶって見せた。

「あと三〇分だけ待ってもらえ。――そうすれば、少なくとも我が軍は五万人の兵が救われる、とでも言っておいてくれ」

 そう言うと、ハルトマンは静かに立ち上がった。

「あの、参謀長殿、どちらへ?」

「裏山の地質調査に出掛けてくる」

 冗談ともつかない言葉を残し、テントの外へと出ていった。

 ハルトマン大佐は、自身の言葉通り、部下を伴わず、手ぶらで一人本部裏の山を登っていた。――「山」というより「小高い丘」と言った表現の方が確かな地形である。植生はあまり豊かでなく、小柄な雑草が一面生い茂っている。周囲の景色も同様で、黄緑色の山肌が、どこまでも続いている。

「こう、雨の量が少ないと、やっぱり景観も違ってくるなあ」

 息も乱さず軽快に斜面を登るハルトマンは、やがて、その場に不相応な白い旗が立っているのを視界に認めた。彼はそれを目指していた。

 本部テントを出て、十分ほどかかって、ようやく目的地に到着した。

 ハルトマンは、その旗の下で気持ちよさそうにいびきをかいている男に声をかけた。

「サカキ准将、ここが気に入られましたか?」

 軍服姿のままで寝そべっていたサカキは、ようやくハルトマンの存在に気付いた。

「ううむ、……なんだ、君か」

 サカキは体を起こすと、がははと豪快に笑った。

「……あと少し寝かせてくれれば、もうちっと気に入るところだったのだがな」

「お休みのところ、誠に申し訳ありませんでした」

 二人は顔を見合わせ、屈託なく笑った。

 ――アンドリュー・サカキ、六十四歳、准将。

 キャメロン東部パルチオン市出身という、現在の陸軍閥から浮いている存在なのにも係わらず、彼の准将という地位が輝いているのは、全て自身の功績である。四年前のアドミラン高原侵攻作戦を始め、ゴーズ大戦、ファッツァー会戦といった大戦にも参加し、彼の手によって成し遂げられた勝利も少なくない。

 今でこそは陸軍でもトップクラスの上級兵だが、若い頃は「パルチオンの白虎」と呼ばれた白兵戦の猛者で、自ら前線に躍り出て敵を薙ぎ倒すその勇姿は、敵味方共に恐れられる存在だったと言われる。

 だが、晩年の彼は、直接兵の指揮を執らなかった。ただ、本部の椅子に座っているだけなのである。どんなに勝っていても、どんなに負けていても、無言で腕を組み、どっぷりと腰掛けている、ただそれだけなのである。

 しかし――。

 ――その姿が部下を安心させるのか。

 ――全権を任せている者がたまたま優秀で、たまたま功を成しているだけなのか。

 とにかく、下級兵士の間で「彼の指揮する部隊にいれば必ず生きて帰れる」と言われるまでの、伝説の司令官である。特に、ハルトマンと組むようになってからは、正に連戦連勝であった。

「ところで、ハルトマン大佐、今回の殺人の準備は出来たのかね」

「はい、あとは准将に作戦会議で首を縦に振って頂くだけで、戦勝気分に酔っているバルノイス軍八万は四散します」

 彼らの発言は、歴史上極めて非常識な部類に分類される。だが、それはもちろん二人の間に絶大な信頼関係があるからだ。

 ハルトマンが第七師団参謀長の拝命を受けた日、サカキは彼を自宅に呼び、ワイングラス片手にこう語ったと後世に伝わっている。

「私は、この年になっても未だに戦略の事はよく分からないから、これから第七師団の作戦・指揮の一切を君にまかせる。必要ならば、私の名前をばら撒いてくれても構わんし、もしもの場合の後始末は私がやるから、今後は安心して殺戮に励みなさい」

 この言葉が真実かどうかは明らかでないのだが、いずれにせよ、サカキ・ハルトマンのコンビが作り出した華麗なる芸術作品は、いずれも完成度が高く、驚嘆に値するものばかりなのである。これは誰しもが認める事実だ。

「――それにしても、司令官と参謀長が二人共いないとなると、きっと本陣は混乱しとるだろうな」

 サカキは白髪の頭に付いた草を払うと、大きく深呼吸をした。

「はい、ですから、もうそろそろ帰って頂きたいと思いまして」

「こいつは、一種の脅しだな。……仕方ない。もうすぐ昼飯だから、帰ってやるか」

 二人は笑いながら、山を下った。