律子との付き合いは短大時代にさかのぼる。
入学前のオリエンテーションの場でたまたま席が隣同士だったのが出会いのきっかけだが、その後、どうして親しくなったのかまるで覚えていない。
いつだったかそのことを尋ねると、律子は笑ってわたしの腕を叩いた。
「バカねー。最初からこんな関係だったじゃない」
言われてみるとそんな気がしないわけでもない。律子はふざけて「主従関係」と呼ぶが、あながち間違っていないと思う。さながら我がまま女王様と哀れな召し使いといったところだが、どっちがどっちなのかはあえて言及しない。
ただ、わたしたちはいつも仲がよかったわけではない。タイプが異なるので、いさかいは年中絶えず、むしろ喧嘩しているのが当たり前なくらいだ。中でも短大二年の夏にやった喧嘩は一番大きなもので、それが原因でしばらく絶交していた。
理由は言わゆる「三角関係」。
当時、とあるファストフードで二人一緒にアルバイトをしていたのだが、わたしはその店の店長に片思いしていた。
ある日、思い切って律子にどうしたらいいか相談したのだが、あろうことかその数日後、律子が店長と付き合い始めたことをバイト仲間の噂で知った。
――今となってはそのときの感情を正確に思い出せないが、「裏切られた」と憤っていたことだけは確かだ。
それからわたしはひたすら律子を無視し続けた。バイトをやめ、学校でも避け、携帯の着信もメールもすべて拒否した。
子どもじみた対応だと頭では分かっていたが、顔を会わせたら暴走してしまいそうな感情を抑えるにはそれ以外に方法が思いつかなかった。
律子と話さなくなって一月ほど経ったある日の午後、次の講義を受けるためにキャンパスを移動中、後ろから誰かにポンポンと肩を叩かれた。振り向くと以前と同じように嬉しそうな顔をした律子がいた。
「よっ、久し振り。元気してた?」
――思わず息が止まる。
静まりかけていた感情が急速に昂り、沸き起きる。
冗談ではない、厚かましいにも程がある。今にも爆発しそうな胸の内を見せないよう、わたしは律子を無視して歩き出した。すぐ後ろを足音がついてくる。
「ちょっと、無視しないでよ」
「…………」
「ねえ」
「…………」
「黙ってないで何か言ってよ」
「…………」
「ねえ、ねえってば! どうして無視するのよ!」
「……身に覚えがあるでしょう」
追ってくる律子の足音がぴたりと止まった。
「もしかして店長のことで怒ってる?」
わたしは立ち止まると、後ろを見ずに叫んだ。
「分かっているのなら聞かないでよ!」
「そのことだけど」
「うるさい! 言い訳するくらいなら、黙って今すぐわたしの前から消えて!」
「でもよかった」
「…………」
――よかった?
その一言で頭の中で何かがはじけ飛んだ。
振り向くと律子を見据え、ゆっくりと口を開いた。
「何が、よかったって?」
「あのゲス野郎と付き合わなくて正解だった」
「…………」
開いた口が塞がらないとはこういうことを言うのだろう。震え出した手を固く握り締め、正面から律子に詰め寄った。
「付き合わなくて正解? 何よそれ、奪っておいて勝手すぎる! それにあの人の悪口を言わないでっ!」
律子は真剣な表情で首を左右に振った。
「いーや、言う。勝手だろうと何だろうと何度でも言う。あいつは最低の野郎。男としてだけじゃなくて人間として最っ低」
「…………」
まさかそんな台詞が返ってくるとは思わなかったので頭の中が混乱し、とっさに言葉が出なかった。
「はっきり言って、あいつにあんたはもったいない」
その台詞と律子の表情があまりに真剣で、怒ろうと思っていたのに感情がごちゃごちゃになって、――なぜか笑ってしまった。
突然、笑い出したわたしを前に、律子は困惑した表情を浮かべた。
「どうしてそこで笑うかな、人が真面目に話しているっていうのに」
「だ、だって……あは、は、はは……」
笑い涙を指で拭ったが、いつまでも涙が溢れて止まらなかった。目の前がにじむ。急に足の力が抜け、その場にしゃがみ込んだ。
気がつくと号泣していた。自分でも涙の意味が分からなかった。自分が分からなくなっていた。
律子が静かに頭を下げた気配がした。
「ごめん、あたしが悪かった」
「…………」
――今、思い出しても律子がわたしに謝ったのは後にも先にもこの一度きり。だから、口先だけじゃなくて心から謝ろうとしていることが分かった。
少しずつ気持ちが落ち着くにつれ、これまで自分のことしか考えていなかったことにようやく気づいた。
律子の立場に立ったらどうだろう。わたしよりも先に、わたしよりもっと店長を好きになっていたのかもしれないし、ひょっとしたらわたしから相談を受ける前から付き合っていたのかもしれない。
そして何より、店長のことを最低だと言わせてしまうような嫌な目にあったに違いない――。
「……わたし、律子に謝られる理由がない」
「バカ」
「バカで悪かったわね」
律子はしゃがんで目の高さを合わせると、人差し指でわたしの額を軽く小突いた。
「バーカ」
ようやく分かった。そうか、わたしも律子も仲直りがしたかったんだ。前と同じように友達でいたいんだ。ときどき言い合って喧嘩をして、でも笑って話をしたいと思っているんだ。
「……でも、ちょっと残念かな」
手の甲で涙を拭いながら立ち上がると、律子は首を傾げてキョトンと不思議そうな顔でわたしを見上げた。
「残念? 何がよ?」
「店長と律子ならお似合いのカップルだと思ってたのに」
「しっ、失礼な!」
律子は勢いよく立ち上がり、露骨に嫌そうな顔をして叫んだ。
「あんな男、あたしにも釣り合うものかっ!」
「あは、あはは……」
これで仲直りの儀式は終わった。
その後、わたしたちはまた以前の関係に戻った。
喧嘩の前後で特に何かが変わったというわけでもなく、前の二人に戻った。ただそれだけ。
今でもときどき喧嘩をしては仲直りの繰り返しで、あれから今年で九年にもなる。お互いにそこそこ年を取ったが、ほとんどあの頃のまま変わっていない気がする。
「あ!」
あることに思い当たり、思わず声を上げてしまったわたしを、律子が横目で見た。
「どうかした?」
「な、何でもない」
先ほど押し付けられたCDを慌ててバッグから取り出すと、歌詞カードをめくり、初めの曲に目を走らせた。
一見すると歌詞はごくありきたりのラブソングで、様々な場所での切ない思い出が綴られているのだが、最後の節でいきなり世界が反転した。
眠れぬ夢で舞い踊る
思い出のフォトグラフ
すべてが愛しく美しく
君たちのどちらかを
選ぶことなんてできない
――そう、男性ボーカルが高らかに歌っていたのは、二人の女性に向けた優柔不断な言い訳だったのだ。
続く二番の歌詞も、二股を謝っているポーズを取りながら反省している様子はまったくなく、自分の作り出したシチュエーションに酔っているだけだった。まったくもって「最低」だ。
律子がこの曲を嫌ったのは、要は男の態度が気に食わなかったのだ。何とも単純でかわいい理由に、思わず頬が緩む。
「……何がおかしいのよ」
顔を上げると赤信号で車を止め、不機嫌そうに睨みつける律子と目が合った。
「ううん、何でもない」
「ふん、変な奴」
信号機が変わり、エンジンをうならせながら車は再び発進した。
「言っておくけどそのCD、いらなければ捨てたって構わないからね」
「分かってる」
うなずき笑いながら歌詞カードをしまうと、CDケースをトートバッグの奥に押し込み、ぱちんと蓋を閉めた。
―― (4)に続く ――