「もしもし?」
『和田のバッカヤローッ!』
いきなりの叫び声に、受話器を当てていた左耳の鼓膜がキーンと鳴った。
油断した。不覚にもかなり油断した。
耳から受話器を離しながら、今度から週末の夜に掛かってくる非通知コールは絶対に取らないと固く誓うと、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。頭の中を仕事モードに切り替え、再び受話器を耳に当てる。
「……お客様、大変恐縮ではございますがダイヤル先を間違えていらっしゃるようです。もう一度、お掛けになった電話番号を確認していただけますでしょうか」
『はあ? 間違ってなんかないわ。これって、松下律子ファンクラブの専用ダイヤルでしょう?』
呆れてものも言えず、わたしは大袈裟にため息をついた。
『ほら、ため息なんかついてると幸せが逃げていくわよ。ねえねえ、それよりも和田って誰だか気にならない? どうしてバカなのか興味ない?』
「微塵もありません」
『あんたねー、クライアントに対する態度がなってないわよ』
「こんな深夜に下らないプライベートコールを掛けてくるユーザなんていません!」
『相変わらず冗談が通じないわね。ま、そんなわけで今から車で来て。いつものところでよろしく。じゃねー』
「あ、ちょ、ちょっとっ!」
考える余裕も口を挟む余地もなく電話は唐突に切れた。「通話時間:四三秒」と表示している子機のディスプレイをぼんやり眺めながらわたしは再びため息をついた。いつもの律子、そしていつものわたし。今回も出だしから負け戦気味だった。
電話機を充電器に戻し、大袈裟に肩を落として振り返ると、ダイニングで缶酎ハイを飲んでいる彰夫と目が合った。
「また律子ちゃんからのラブコールか?」
その言葉に苦笑するしかなかった。
「ホントに仲いいよな、お前ら」
彰夫は笑いながら缶に口をつけた。
「別に仲がいいわけじゃないけど、……わたしたちの会話、分かっちゃうんだ」
「まーな。律子ちゃんと話しているときのお前の顔や口調、いつもと違うからな。今度は鏡を見ながら話してみな」
「…………」
眉間に皺を寄せてガミガミと怒鳴る自分を頭の中で思い描き、更に落ち込んだ。
「今から出掛けるんだろう? 泊まりか?」
「あ、……うん、たぶん朝まで帰れないと思う」
「じゃあこの続きは再来週だな」
嫌みのない言葉が胸にぐさりと突き刺さる。きっとそれが顔に出てしまったのだろう、彰夫はテーブルに缶を置くと優しい笑みを浮かべた。
「気にするなって。今度は二回分、まとめてぱーっとやろうな」
「ごめんね、せっかく久し振りに来てくれたのに」
「いいってことよ。親友のピンチなんだろ」
「親友じゃなくて悪友」
「あははは。まあ、早く行って来な」
「ありがと」
彰夫と短いキスを交わし、手際よく身支度をして律子の待つ夜の街へと車を走らせた。
待ち合わせ場所に程近い無人駐車場に軽自動車を止めて大通りに出ると、すぐに律子の姿を見つけることができた。
柑子色の光を注ぐ街路灯の下で、燃えるような深紅のトレンチコートに身を包み、腕を組んで立っている。そこそこ遅い時間にもかかわらず街は人で溢れ、その中で律子は行き過ぐ男性たちの視線を集めている。それもそうだ。顔もスタイルもいい上にお洒落で、そこにいるだけで嫌でも目立つ。
昔から律子には異性を引き付ける力があった。わたしにはない女としての魅力。一人の人間としての魅力。ただ不思議と、羨ましいと思うことはあっても嫉ましく感じたことは一度もない。きっとあまりにレベルが違いすぎて、最初から勝負にならないと分かってしまっているからだろう。
そんなことを考えながらぼんやり眺めていると、程なく律子はわたしに気づき、笑顔で片手を上げてこちらに向かってきた。
「よっ。遅かったじゃない」
わたしはトートバッグを掛け直し、仏頂面を作って答えた。
「呼び出し料金、深夜特別料金、及び慰謝料で締めて前金で五万円になります。ガソリン代は別途、実費請求」
「バカなことを言ってないで。ほら、時間がもったいないからさっさと行くわよ」
「半分、本気だったのに」
「ガソリン代くらい払ってあげるわよ。駐車場、こっちよね?」
ため息をついているうちに律子は颯爽と歩き出した。その後を慌てて追い掛ける。
ヒールの小気味いい音が歩道の石畳に響く。姿勢のいいその後ろ姿を言葉で表現するなら「凛々しい」の一言に尽きるだろう。
「いつも思うけど律子って派手よね」
「……ん?」
律子は立ち止まると振り返り、赤いコートの裾を持ち上げてみせた。
「これのこと? こんなの派手でもなんでもないって」
「ううん、わたしには絶対に無理」
「またそんなこと言って。無理かどうかなんて要は気持ちの問題よ。気持ち。あんただって着てみればいいのに。きっと似合うわよ」
どう答えたらいいか分からずとりあえず笑ってみたが、きっと苦笑だったに違いない。
改めて考える必要もない。そのオーバーコートは律子だからこそ似合うのであって、わたしだけでなくほとんどの女には着こなせないだろう。律子自身がそのことを自覚しているかどうかは分からないが、それでも彼女なりにわたしに気遣ってくれていることが少し嬉しかった。
駐車場まで到着すると律子はコートを脱いで車の運転席に、わたしは助手席に乗り込んだ。
「CD、持ってきてくれた?」
座席の位置を後ろに下げながら律子は尋ねた。
「いつものやつでしょう?」
バッグからゆずのアルバム「one」を取り出して見せた。
「よーし、えらいえらい」
律子は満面の笑みでCDを受け取ると、手を伸ばしてクシャクシャとわたしの頭を撫でた。思わず照れてうつむく。律子は昔から男女を問わず仲のいい相手にときどきこうやってスキンシップをするのだが、正直いつまでも慣れない。
「え、えっと、それで今日の行き先は?」
「とにかく西。これは譲れない」
ハイヒールを脱ぎ、後部座席に投げ捨てながら、律子は力強く即答した。
「前から聞きたかったんだけど、いつもどうして西なの?」
「常識よ。昔の人も言っているじゃない。そこへ行けばどんな夢も叶う――って」
「それって『ガンダーラ』よね」
「そう。ブッディスト・ユートピア、もしくは古きよき時代のインディアン・ドリームってところかしら」
「わたしたちとは世代が違うバージョンだけど」
「常識の範囲内よ」
律子は基本的に流行に敏感でミーハーだが、妙に懐古趣味な面があったりする。そんなこだわりがある律子が羨ましいと思うことがあるが、どこから仕入れた情報なのかいつも謎ではある。
ちなみにどうしてわたしがゴダイゴの「ガンダーラ」を知っているかというと、以前に律子からドラマのDVDとCDのセットを半強制的に貸し出されたことがあるからだ。
「ねえ、律子。ちょっと思ったんだけど、地球って丸いから東に進んでもインドに到着するよね?」
「ふっ、バカね」
律子は鼻でせせら笑って答えた。
「中国や日本から東なんかに進んだら遠回りの上に、ひたすら海を突っ切らないといけないでしょ。そうしたら坊主と豚は一発でオダブツよ」
坊主と豚? ああ、三蔵法師と猪八戒のことかと頭の中で変換しながら、そういえば河童って海でも泳げるのかしらとぼんやり思った。
――律子が東に行かない理由を知っている。
ここから東には彼女の実家があるのだ。彼女の家は古くからある造り酒屋だが、両親は一人娘の律子に婿養子を取ってもらうことを望んでおり、子どものころから早く結婚しろとうるさく言われていたらしい。
一方の本人は短大を卒業し、就職と同時に家を出て十年弱経った今もその気がなく、自分の仕事と恋を捨てたくないと周りに公言して憚らない。
ちなみに今の彼氏は律子の実家の事情をまったく知らないと聞いている。いつの日か告白しなければならない日が来るのだろうが、あくまで律子自身の問題であって、部外者のわたしがどうこう言える立場ではない。普段から鈍いと言われているわたしでもそれくらいはわきまえているつもりだ。
「何をぼんやりしているのよ」
「あ、えっと……少し考え事」
「下らないことばっかり考えていると老けるわよ」
「大きなお世話です」
ぶっきらぼうに言い返したが、わたしが考えていたことの方がよほど大きなお世話なので黙っていた。少し気まずい思いをしているわたしをよそに、律子は曲に合わせて鼻歌を歌いながらミラーの位置を直し、一点の曇りもない笑顔を向けた。
「さて、準備も終わったことだし出発しますか!」
「……安全運転でお願い致します」
「うむ、善処する」
のろのろと動き始めたわたしの車は車道に出た刹那、急発進した。エンジンが悲鳴を、タイヤが金切り声を上げる。ジェットコースター顔負けの加速で息をつく間もなく黄色信号で交差点に侵入、急左折。遠心力を身体全体で感じながら、わたしは本日何度目かのため息をついた。
―― (2)に続く ――