『えー、右手をご覧下さい。間もなく見えますのが、日本三景の一つ、松島でございまーす。一説には、かの有名な松尾芭蕉が、景色のすばらしさに感動して、まともに俳句を読めなかったとも言われております。大小合わせて二六〇もの島々からなっておりまして……』
観光バスは、約三十名から成る『東北日本観光ツアー』のツアー客と搭乗員を乗せ、海岸沿いの道をなめらかに走っている。外は小雨であり、淑やかに濡れた景観が、何とも言えない雰囲気を醸し出している。
白いブラウスを着た中年の女性が、頬杖を付いて車外の景色を眺めていた。
――小谷香奈子、四十六歳。
今年の春、一番下の子どもが東京の私立大学に入学し、ひとまず子育てに終止符を打つ事が出来た。そこで、地質調査所を定年で辞めたばかりの夫の武彦を誘い、ゴールデンウィークを利用して旅行を楽しんでいる、という訳なのである。こうして二人きりで旅に来たのは、実に新婚旅行以来であった。
香奈子は、隣でいびきをかいて寝ている夫の肩を静かに揺すった。
「ねえ、ねえ、あなた。窓の外を見て。……ほら、松島よ」
「んん?」
目を擦りながら頭をもたげた武彦は、擦り落ちそうな眼鏡を掛け直すと、首を九十度曲げて車窓に目を移した。まだ両の目が眠そうである。
武彦は、窓に向かって二三度瞬きをした後に、大きな欠伸をした。
「ふぁぁあ……なんだ、松島か」
「なんだはないでしょ」
いかにもつまらなそうな夫の返事に、香奈子は少しばかり腹を立てた。
「ねえ、せっかく旅行に来たんだから、もう少し景色とか楽しんだらどうなの」
武彦は妻の顔をちらりと見ると、再び大きな欠伸をして退屈そうに言った。
「……だってなあ、あれ、ただの砂岩だろ。見たって別段面白くないし……」
◆留意点
フィールド(野外)における地学者の目は、常に地層や岩石に向けられており、その他のものには一切目もくれない場合がままある。