夏休みも終盤に近づいた、八月二六日の夜十一時。
橋本啓二《はしもとけいじ》は一人机に向かい、淡々と作業をこなしていた。
――橋本家のマンションには、この時彼一人しかいなかった。
母親は町内会の一泊二日の旅行とやらで不在、しかももう一人の家族である父親も、今日は仕事の追い込みでカプセルホテルで泊まる事になっていた。
夕方遅く、友人宅から帰ってきた啓二は、バラエティ番組を見ながら、出前の中華料理で夕食を済ませ、その後、ゆっくりと風呂に入った。小一時間後、すっかりゆだった身体にエアコンの冷風を浴びながら、これから何をしようかと思案した。
テレビ。マンガ。そして何より、買ったばかりの新作RPG。
十六歳と言えば、色々と遊びたいお年頃である。
――しかしながら、それらの誘惑よりも、一月強の間にため込んだ宿題量と、数学教師・中山の恐ろしさの方が遥かに威圧的であった為、ようやく集中する事に成功した――そんな矢先の出来事であった。
「――ん?」
突然、啓二はばっと顔を上げた。
若い女性の声で呼ばれた……ような気がしたのだ。
ぐるりと室内を見回す。
いつもと同じ、四畳半の殺風景な部屋である。取り立てて異常はない。
「……空耳、だったかな?」
隣室のテレビか何かの音だろうか?
耳を澄ませてみたが、辺りはしーんと静まり返るばかりである。
もう一度、自室を確認。
やはり変わった所は見受けられない。
「やっぱ、気のせいだったんだろーな」
自分の拳で頭をこんこんと叩き、再び目の前の課題に取り掛かろうかと思ったその時、今度は確かに声が聞こえた。
『よっこらしょっと』
声の主は……窓の外。
しかし、ここはマンションの三階。よじ登れるような高さではない。
ベランダ伝いに進入を企てている(女)強盗か――?
啓二は音を立てないようにそっと立ち上がり、机の横に立てかけてあった金属バットを静かに握りしめると、声のした窓の方へと近づいた。
よくよく注意して見てみると、半月の弱々しい光によって、その人物のシルエットが、うっすらとカーテンに映し出されていた。
とにかく女である(!)。
抜群のスタイル(と思われる)。
年は恐らく啓二と同年代(らしい)。
よく分からない装飾品(だろう)。
そして、上方から降りてきている思われる一本のロープ(?)。
彼女はそれにぶら下がっている(ようだ)。
――微かな期待と、それとは比べものにならないほどの大きな不安。
こーゆー場合、どーしたらいいんだろーか?
こめかみの辺りを指で押さえながら一人悩む啓二であったが、彼が解答を導き出すまでの猶予を与えるほど、現実は甘くなかった。
三度目の声がした。
『せーのっ』
はっと顔を上げたその瞬間。
どぅがしゃあ――んっ。
ガラス窓を蹴り割って、その人物は中に入ってきた。
「ぐうわぁあ!」
驚きうろたえ、腰を抜かし、床に倒れる啓二。
しかし、そんな彼の姿が眼中にないかのように、彼女は平然と服に付いた埃やらガラスの破片やらを払うと、今し方自分が使った進入路を振り返った。
とびっきりの笑顔で、夜風ではためくカーテンを指さす。
「あははは。割っちゃった。割っちゃった★」
その場をごまかすかのような、のーてんきな笑いであった。
――顔は想像したよりも少し童顔、腰まであろうかという長い黒髪に、大きな赤いリボンを頭のてっぺんで結んでいる。
服装はというと、胸元を強調した黒いレオタードに薄ピンク色の透明なマントという出で立ち、しかも異常さに輪を掛けているのが、タブレットやら首飾りやらピアスやらの、国籍・出所不明の装飾品の数々。
まさに正体不明を絵に描いたような少女であった。
驚きのあまり啓二は声も出ず、酸素の足りない金魚のように、ただ口をぱくぱくさせるしかなかった。
彼女はゆっくりと振り返ると、腰に両手を当て、何食わぬ顔で部屋を見回した。やがてその視線は啓二の不安げな二つの目に辿り着く。――ようやく彼の存在に気付いたようだ。
彼女は悠然とした足どりで、目が点になって倒れている啓二に近づくと、腰をかがめてにっこりと微笑んだ。
「ねえ、ここって、高梨さんち?」