まどろみの果て

 耳をつんざく急ブレーキの音。ボディーがつぶれる衝撃。

 ロックされたシートベルトが身体を締め付け、肋骨が軋む音がした。

 次の瞬間、ハンドルに組み込まれたエアバッグが一気に膨らみ、眼前に迫ってきた。視界の隅で、砕け散るフロントガラスが細かい粒子となって辺りに舞う様子を捕らえながら、いつか見たダイヤモンドダストみたいだな――と他人事のように考えているうちに、俺は意識を失った。

 最初に視界に入ったのは、煤けたモルタルの天井だった。続いてギブスや包帯で固定された全身を見て、自分の置かれた状況を理解した。

 俺が目を覚ました事を知った家族や友人、そして警察が、入れ替わり立ち代り病室を訪れ、俺がぼんやりとしか覚えていない事件の様を事細かに語った。

 居眠り運転をしていた対向車がセンターラインを乗り越えて俺の車に向かってきたところ、俺はそれを避けようとしてハンドルを切り損ね、近くにあった電柱に正面衝突したらしい。

 相手の運転手は衝突する前に車を止める事が出来たので無傷で済んだが、運転をしていた俺は肋骨と両足・右腕の骨を折る全治六ヶ月の重症を負い、そして、助手席に乗っていた大庭美樹の命が永遠に失われた事を知った――。

 程なく美樹の両親が俺の病室にやって来た。

 一言も喋らずに俯いたままの母親の横で、「絶対に貴様を殺してやる」と繰り返す父親の言葉に、俺はただ謝るしかなかった。可愛い一人娘を亡くしたのだから、例え殺されたって文句は言えない。一生を掛けても償う事は出来ない罪だ。

 なぜ彼女だけが死に、自分だけが生き残ったのか――二人が病室から去った後も、後悔の念は俺の胸を占有し続けた。

 だが、なぜだか涙は出なかった。

 好きだった、愛していた彼女を失い、悲しいはずなのに、なぜ?

 俺にとって、彼女の存在は何だったのだろう?

 彼女にとって、俺の存在は何だったのだろう?

 その夜、不意に名前を呼ばれた気がして、俺は目を覚ました。

 暗闇の中、目を凝らすと、白いワンピース姿の女性が自分のベッドの端に腰掛けているのに気が付いた。それはどこからどう見ても、今回の事故で死んだと聞かされた大庭美樹と瓜二つだった。

 彼女は俺と目を合わせると、眩しそうに目を細めた。

「起こしちゃってごめんね。身体の調子はどう?」

「…………」

 何となく予感はしたが、声まで美樹に似ていた。

 術後の麻酔がまだ残っているのだろうか。

 それとも精神的ストレスが原因だろうか。

 俺は彼女とは逆の方向に首を向け、固く目を瞑った。

「……ねえ、せっかく会いに来たんだから、無視しないでくれるかしら?」

「誰だか知らないが、悪ふざけはよしてくれ」

 目を閉じたまま俺は答えた。

「もしかして、事故の後遺症で私の事を忘れちゃったの?」

「大庭美樹の幻影だろう?」

「どうしてそうなるのよ。私、本物よ? ――幽霊だけど」

「…………」

 観念した俺は、目を開いて彼女の方に顔を向けた。

 そして全身をくまなく観察した後で、かろうじて自由に動く左腕を動かして、指差しながら言った。

「足があるのに幽霊のはずはない」

「これだから素人は困るのよね」

 彼女は両足をぶらぶらとさせながら、やれやれといった様子で肩をすくめた。

「そもそも、幽霊に足がないなんて決め付けたのは誰? もっと冷静に現実を見つめないと駄目よ」

 にわかに認めがたいが本人らしい。

 俺はまだ夢を見ているのかもしれない。だが、夢にしろ現実にしろ、ここに彼女が来た理由は言うまでもないだろう。

「美樹」

「なーに?」

 妙に明るい声に少し戸惑ったが、深呼吸をしてから俺は言葉を続けた。

「俺を殺しに来たのなら一思いにやってくれ。当然、お前にはその権利がある」

「…………」

「俺を恨んでいるから化けて出てきたんだろう?」

 彼女はやおら立ち上がると、腰に手を据え、ムっとした表情で俺を睨んだ。

「前々から言っているけど、その悲観的なものの考え方、直した方がいいわよ。――いい? 確かに、死んじゃった事は後悔しているけれど、私、別にあなたを恨んだりはしてないわ」

「……どうして?」

「どうして――って、これ以上、私の口から言わせる気?」

「分からないから教えてくれと言っている」

 彼女はしばらく躊躇した後、少し口ごもりながら言った。

「あなたと過ごした時間が楽しかったからに決まっているでしょ、馬鹿」

「…………」

 俺はため息をつき、視線を逸らした。

「ちょっと、何よその反応は?」

「気休めはよしてくれ」

 俺は天井の染みをぼんやりと見つめながら答えた。

「人が真面目に話しているのに、嘘だと思っているの?」

「そうじゃない」

 俺は目を伏せ、頭を振った。

「今、目の前に見えているお前が、現実逃避の為に俺が作った、好都合な夢だと認めたくないんだ」

 不慮の事故とは言え、俺の責任で彼女の生命は失われた。

 これは紛れもない事実だ。

 だから、ここにいるのが彼女の霊だとしたら、一言でも恨み言を言うのが当然だ。それを否定したいから、こんな都合のいい幻影を見ているに違いない。

 これ以上、何を言ったらいいのか分からずに黙っていると、彼女が口を開いた。

「……ごめんなさい」

「どうして美樹が謝るんだ?」

 俺は顔を上げた。

「昼間、お父さん、あなたに酷い事を言ってたでしょう? でもね、私は知ってる。あれはあなたのせいじゃない。私達にとって、ううん、相手の運転手にとっても、不幸な事故だったの。だから、これ以上、自分も他人も責めないで。――ね?」

 とても優しい口調だった。

 それから彼女は、透き通るような瞳で俺を見つめ、微笑んだ。

「あなたがそう思いたいのなら、夢でも幻でもいい。そもそも夢と現実の区別が明確に付いている人なんて、そうそういないしね。私は自分の気持ちを伝えられただけで満足だから、あなたがどう解釈しようと構わないわよ。だけど、出来れば好意的に受け取って欲しい――なんてね」

 俺はその台詞に笑うしかなかった。

「相変わらず、理屈っぽい上に強引で勝手だな」

「それに素直でしょう?」

 美樹は腰をかがめ、顔を近づけてきた。

 唇が重なる。

 相手が幽霊だからか、夢だからか、それとも麻酔が残っているからか、予想通りに感触はなかった。だが、不思議と彼女がそこにいるという確証はあった。暖かな存在感。俺は髪に触れる為に手を動かそうとしたが、それを察してか、その前に彼女はさっと身体を離し、悪戯っぽい目つきで「残念でした」と呟いた。

 幽霊でも幻でも構わない。この腕で抱きしめる事が出来なくてもいいから、いつまでも一緒にいて欲しい。心の底からそう思った。――だが、それは本当に俺が、彼女が望んだ結末だろうか?

「ねえ、今度は何を悩んでいるの?」

 これまで見たどの笑顔よりも優しい表情で、美樹が顔を覗き込んだ。

「……一つ、頼みを聞いてくれるかな?」

「何?」

「こんなところで油を売っていないで、成仏してくれないか。このままじゃ、気になっておちおち眠れやしない」

「んー、それは出来ない相談ね」

「え?」

 唖然とする俺を見て、美樹はくすくすと笑った。

「ねえ、知ってた? 私の実家は神道だから、成仏って概念はないのよ」

 そう言ってウインクをすると、まるでシャボン玉がはじけたように、彼女の姿は虚空にかき消えた。後にはクレゾールの匂いがする闇夜だけが残った。

 それきりだった。

 やれやれ、最後まで勝手な奴だ。

 自分だけ言いたい事を言って、さっさと消えてしまった。

 映画や小説のこういう場面は、最低でも、互いに「さよなら」を言ってから別れるものだろ?

 言い残した言葉が次から次から出てくるが、どれも上手く声にならない。

 だが、どうしても伝えたかった一言だけは、言わずにはいられなかった。

「俺も楽しかったよ、美樹――」

 頬を伝って涙が流れ落ちた。