日付が十月一九日に変わって間もない午前零時十五分、恐らく今夜最後であろう巡回の足音が遠のくと、それまで物音一つしなかった向かいの区画でごそごそと何かを探るような物音がし、やがて遠慮がちにナイロン製のカーテンが開けられた。
「……おい、中村、起きてるか」
囁くような小声で東《あずま》が声を掛けてきた。
「うん、まだ起きてる」
中村は綿の乏しい布団の中で寝そべり、くすんだ灰色の天井を見つめたまま答えた。
「本当は早く寝たいんだけど、全身筋肉痛で、目が冴えちゃってて」
「情けねえな。――って、実は俺もだけどな」
カーテンの向こうで、東が苦笑した気配がした。
「なあ、中村。もしよかったら、今から、屋上行ってみないか?」
「うん、いいけど……ちょっと待ってくれる?」
中村は半身を起こし、手探りで枕元にあったマグライトを探し当てると、筋肉痛の手足を庇いつつベッドからずるずると身体をずらし、裸足のまま床の上に抜け降りた。ひんやりとした夜の固まりが、足の裏から身体の奥底まで染み込んでくる、その感覚をほんの一瞬楽しんだ後、丁寧に揃えられたスリッパに両足を入れた。そして、すり足で右隣の個人区画の前へと移動した。
カーテンで閉め切られ、しんと静まり返った二畳ほどの空間に、三人目の住人・荒川が就寝していた。
中村はひそひそ声でカーテン越しに相手に語りかけた。
「ねえ、荒川君、僕達ちょっと出かけて……」
「わざわざ私に断る必要などない」
最後まで言い終える前に、素気ない荒川の答えが返ってきた。
「ご、ごめん、起こしちゃった?」
「気を使うな。最初から起きている」
「う、うん」
ちょうどその時、懐中電灯を手にした東が中村の横にやってきた。
「なあ、室長、一つお願いがあるんだけどよ」
「もしあいつ等が来たら便所に行ったと答えておく」
「お、おう、……頼むぜ」
「西の階段は使うな。扉が錆び付いていて開ける時に大きな音がする。あと、分かっていると思うが、見つかると色々とやっかいだ、なるべく早く戻ってこい」
全て先回りした荒川の発言に、東は戸惑った表情で苦笑する他なかった。
「もう一つ、明日は入校式、訓練はまだこれからが本番。睡眠と食事は無理にでもして極力体力を温存しておくべきだ」
「あ、ああ、そうだな」
二人のちぐはぐなやり取りを見て、中村はくすくすと笑った。
「じゃあ、荒川君、僕達ちょっとトイレに行って来るね」
「罰の腕立て伏せをしたくなければ、くれぐれも足音には気を付けろ」
「忠告ありがと」
中村はにこりと笑い、素直に礼を言った。
再び荒川の寝所が静寂に包まれるのを確認し、二人は部屋を後にした。
昼間は雲一つない爽やかな秋晴れであったが、雨が近づいているのか、二人が屋上に上がった時には、空一面、厚い雨雲に覆われていた。星はおろか月の陰すら見えない。また、十月も下旬に差し掛かり、紅葉で色付き始めた周囲の山々も、光なき闇夜の中では墨色一色の無骨なオブジェクトと化するしか他なく、見る者全てに無言の重圧感を与えずにはいられなかった。
だがそれでも二人は、何をするでもなく、ただ、フェンスに体重を預けているだけで、緊張から解き放たれ、ささやかな開放感を味わう事が出来た。
「そうそう、忘れるところだったぜ」
突然、東はジャージのポケットから、皺の寄ったマルボロと百円ライターを取り出した。
「それ……どうしたの」
中村は目を丸くした。
「へへ。こっそり持ち込んだ虎の子」
歯並びのよい歯を見せにやりと笑うと、フィルターを口の端にくわえ、火を付けた。胸の隅々まで吸い込んだ空気を、白煙の塊として夜空めがけて吐き出す。
「ふう。生き返ったって感じだ」
「ねえ東君、やっぱり止めた方がいいと思う」
東の顔を覗き込み、心配げな顔で中村は言った。
「けっ。誰も見てねえってのに、いい子ぶってどうするんだ。それともお前、嫌煙家なのか?」
「ううん、違う」
中村は目の前の灰色の建物を指さした。
「その煙草の火、多分、先輩達のいる棟から丸見え」
「そ、そうか」
東は慌てて煙草をコンクリートの床に放り投げると、サンダルの底でもみ消した。腰をかがめ、踏み潰されぺしゃんこになった吸殻を拾い上げると、それを手にしたまま、しばらく思案していたが、結局、苦笑しつつ、ズボンのポケットの奥へと滑り込ませた。
「……だけどよ、なんだ、あいつら先輩っつっても、高卒なんだぜ。高卒。俺より四つも年下、信じられるか?」
東はフェンスの上部を両手で掴み、口をへの字に曲げた。煙草が吸えなかったせいか、いつもより機嫌が悪そうだと、中村は思った。
「しかも中村、お前なんか、確か、一浪の上に、大学院出だろう?」
「う、うん」
「七つ?……も年下のガキ共にあそこまで威張られちゃ、世も末だぜ」
「でもさあ、ここで半年間も逃げずに頑張ってきたんだから、やっぱり先輩は先輩だよ。僕、尊敬するな」
「なるほど、そいつは言える」
東は腕を組み、やや真剣な面もちで頷いた。
「確かに、俺達みたいに大学でモラトリアムしていた落ちこぼれとは違うよな」
「……Y教官のセリフ、まだ気にしてるの?」
中村は、夜礼の後に行われた訓練で、竹刀片手に、腕立て伏せ三百回の途中でへばった者の背中を蹴飛ばしながら、「貴様等はクズだ! カスだ! 落ちこぼれだ!」と連呼していた教官の姿を思い出した。勿論、二人とも彼の犠牲者であった。
「あの訓練自体が無茶だから、出来なくても気にする事ないよ」
「だけどよ、気にするなって方が無理だぜ。初日、三十二人いた仲間が、今日で二十六人。信じれるか、入校式すらまだやってねえってのによ、たった四日で六人も辞めちまった」
六人の中には、二日間、同じ部屋で過ごした宮田という男も含まれていた。
「認めたくないけどよ、確かに俺達は、根性なしのおちこぼれ集団だぜ」
「でも、辞めていく人の気持ち、すごく分かるよ。僕だって今すぐ逃げ出したいもん。――ただ、僕にはその勇気がないだけ」
「ふーん、勇気、ねえ」
二人はフェンスに体重を預け、無言のまま、闇に沈んだ周辺の景色や、遥か遠くに見える街の明かり、そしてどんよりと曇った夜空を眺めた。わずかに湿り気を含んだ夜風が、時折忙しげに駆け抜けていく。
「そういやさあ、一度聞きたかったんだが」
自分の頬をなでながら、東が口を開いた。
「お前、どうして警官なんかになろうと思ったんだ?」
「僕?」
中村はフェンスの上で頬杖をつき、空を見上げると、うーん、そうだなあ、どうしてかなあ、とのんびりと呟いた。
「……あ、そうそう、思い出した。――『踊る大捜査線』だ」
「はっ、『踊る大捜査線』だあ?」
東はくるりと半回転すると、背中からフェンスにもたれ掛かり、大げさに腹を抱えげらげらと笑った。
「は、はははは。何だ単純だな。そうか、中村は『アオシマ君』にだまされたか」
「そんなに笑わなくてもいいじゃん」
中村はちょっと拗ねたような口調で言った。
「じゃあ、東君の志望理由はどうなの」
「は、……お、俺?」
一瞬、言葉に詰まった東は、小声で呟いた。
「俺は……『西部警察』」
今度は中村が笑う番だった。
「なんだ、人の事言えないじゃない。第一、あんな警官が日本にいる訳ないよ」
「うるせえ。いいじゃないか、好きだったんだからよ」
東は口をとがらし、そっぽ向いた。
中村はくつくつと笑い続けた。
「なあ、中村」
「ん?」
笑い涙を指で拭いながら、中村は東の方を見た。
「ファゴットって知っているか」
「うん。――確か、こーんな風に、長い楽器、の事でしょ?」
中村は身ぶり手振りでその楽器の大きさを説明しながらも、東が何を言わんとしているのか見当も付かなかった。
「で、それが、どうかしたの?」
「実は俺、音大出なんだ」
「…………」
びっくりした表情で中村は相手を見た。日に焼けた筋肉質の体格、そして抜群の持久力を持つ東は、てっきりどこかの体育大学の出身かと思っていたのだ。
東は正面にそびえる山の陰をじっと見つめたまま、静かに口を開いた。
「俺、中・高とオーケストラの部活でファゴット吹いていて、進学する時もそのままなんとなく音大に行ったんだ。で、このファゴットってやつは、需要が少ない代わりに供給も少なくて、大抵の奴は卒業後、大学に残ったり海外留学なんかをして腕を磨いて、多かれ少なかれその道のプロになるってのが常道なんだけどよ、俺には到底そんな力なくてな。音楽関係の職はきっぱり諦めて、世間一般で言うところの、普通の就職活動をしてみた。が、これがてんで駄目。唯一、ひっかかったのが警官って訳だ。しかも、補欠のな」
中村は無言で頷いた。
「だから、俺みたいな落ちこぼれ拾ってくれるってだけで、本当は感謝しなくちゃいけないんだろうけど……」
「…………」
東は声を押し殺し涙を流していた。
中村はただ黙って隣にいる事しか出来なかった。
――どれくらいそうしていたか、そろそろ戻ろうぜ、という東の言葉で、二人は部屋に戻る事になった。力無い足どりで進む東の後ろを、中村は無言でついていった。
屋上の扉の前で東はふと立ち止まると、ノブを手にしたまま小声で何やら呟いた。
中村にはその内容が聞き取れなかった。
「……なに?」
「いや、何でもない」
背中を向けたまま首を左右に振ると、東は現実に続く階下へと降りていった。
「てめえら! いつまでちんたら寝ているんだ、早く準備しろ!」
翌朝、中村は先輩達の怒号で目を覚ました。
目覚まし時計で時間を確認する。六時五十分、時間ぎりぎりである。
慌てて飛び起きると、ベッド下からスポーツバッグを引き出し、身支度を始めた。
しばらくすると向かいの東もよたよたと起きてきた。――そのままの格好で行くつもりなのか、準備もせず、目をこすりながらぼーっと突っ起っていた。
「ほら、東君、準備しなくていいの?」
「ふわあ。めんどうくせえからパス。――そういやあ室長は?」
「え」
東の指摘通り、室長・荒川の姿はなかった。丁寧に折り畳まれた布団とシーツがベッドの隅の方に固めて置いてあった。
「きっと、トイレか顔洗いに行っているんだよ」
だがしかし、廊下に集合し、号令を掛け始めても、荒川は現れなかった。
時間が押していた為、一同はやむなく彼を待たず、集合場所へと向かった。
結局、荒川は、朝礼の場にも、走り込みにも、そして、朝食の席にも、入校式にも、姿を現さなかった。
――長く退屈な式典を終え、自室に着替えに戻ると、そこに荒川がいた。彼は一人、持参した四角いプラスチック製の衣料ケースに、荷物を詰め込んでいるところだった。
「荒川君……」
「ご覧の通り、警察学校を辞める事になった」
表情一つ変えず作業を続けたまま、荒川はそっけなく返答した。
「どうして……」
「理由? 理由はドロップ・アウト、脱落だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「…………」
中村は無言で、隣に立っている東を見た。
どこか寂しげで、泣き出しそうな、悲しい目で、荒川を見つめていた。
「室長、後悔は……ないのかよ」
東の言葉に荒川は顔を上げると、目を細め静かに微笑んだ。
「後悔か――そうだな、後学の為に、拳銃の射撃練習までは残るべきだったかもな」
それは、警察学校に来てから最初で最後の、荒川の笑顔だった。
こうして、戦友がまた一人、去っていった。
――それから約二ヶ月後のある夜、自室でのささやかな自由時間の合間に、中村は東から、荒川のその後を聞いた。
彼は警察を辞めた後、程なく県内の某予備校に就職を果たし、サラリーマン生活を始めたという。なぜそんな事を知っているのかと東に尋ねると、教官の机に置いてあった名簿をこっそりと覗き見し、見付けた連絡先に電話を掛けてみたとの事。
「案外、元気そうだったぜ、あいつ」
「そっか。じゃあ僕達も頑張らないとね」
「でもあの荒川の事だ、きっと予備校でもあのマイペース振りで、生徒や同僚達を煙に巻いているんだろうよ」
東はおどけ口調でそう語った。
世間は狭い。そのうちに、またどこかで彼と会えるかもしれない。その時には笑顔で声を掛けよう。中村はそう心に決めていた。
荒川君、元気だった、新しい仕事はどう、と。