自主規制

 東京駅に近い都内の某プリンスホテルの六階、六三二号室。

 二人の男のドラマが、その狭い空間の中で華麗に繰り広げられていた。

 ……とはいっても、二人でクーデターの綿密な計画を立てるべく談判をしているのでもなければ、はした金を賭けてポーカーをしている訳でもない。はたまたスーファミでファイアーエンブレムをやっている訳でもないし、赤鉛筆片手に競馬新聞にかじり付いている訳でもない。

 まあ、簡単に言えばいわゆる「缶詰」というやつである。――そう、作家がさぼっていてどうしても締め切りまでに原稿が間に合わない、という際によく用いられる、最終手段の事である。

 いがぐり頭に赤いねじり鉢巻、派手なアロハシャツにジーパンという出で立ちの男が、日の丸扇子片手に無意味に笑い続けている。――彼は「平泉弁慶」という名のSF作家。以前は自称「歴史ノンフィクション作家」であったが、ノンフィクションと称するにはあまりにも突飛な発想と軽快すぎる文章の為に、いつしかSFを本業とするようになっていた。いや、もっと正確に言うと、彼に歴史物の原稿を依頼する出版社がなかった為に、やむを得ず始めたSFの第一作目がヒットしてしまい、その結果として今の彼があるのである。現在、三十六歳。二子の父である。

 そして、部屋の中の片隅で体操座りをして半ばいぢけながら平泉の監視をしている、生真面目そうな若い男が、平泉の専任編集者・中沢影吉。几帳面に七三に分けた髪の毛、黒縁眼鏡、紺のスーツ。まさに、編集者の鑑のような格好であった。

「べんけーせんせぇぇぇぇぇ、えーかげんに真面目に書いて下さいよっ」

 白紙の原稿用紙の束を前に、扇子を扇ぎながら、もう片方の手の小指でのほほんっと耳垢をほじくっている平泉に対し、中沢は数十回目の注意を入れた。……彼らがこの部屋に入室して仕事に取り掛かり始めてから、既に一時間が経過していた。

「原稿が落ちたらどうするんですかぁっっっっ」

 顔面全体をひきつらせて、中沢は叫んだ。……五日後(正確には四日と7時間十八分後)、完全に原稿は落ちる。

「だーいじょうぶっ。五日もあれば、SFの中編一個くらい書けるって」

「一ヶ月以上時間があったんですから、大筋だけでも考えてあるんでしょうね……?」

「うんにゃ」

「なら、今すぐ考えて下さいっ」

「まあまあ、細かいことは心配しないで。大船にでも乗った気分でばーっと……」

 中沢は大きくため息をついた。

(ああ、弁慶先生の担当者を、誰か代わってくれないかなあ……)

 編集者もこれでなかなか大変なのである。「編集者って楽なんでしょ」なんて甘い希望を抱いている諸君、悪い事は言わないから今すぐ考えを改めなさい。

「そうだ、いい考えがある!」

 突然大声を上げた平泉。中沢は身を乗り出すと、目をきらきらと輝かせた。

「ひょっとして、いいネタが思い浮かんだんですか!?」

「いやいや、違うって。――わたしの代わりに影さんが書いてくれたらいいんじゃないかなって」

「……わたしを本気に怒らす前に、さっさと書いた方がいいと思うんだが」

 突然声がオクターブ下がった若手編集者は、同時に顔の表情が険しくなっていた。先程までのイメージからは全く想像出来ないような変貌ぶりである。目からは殺人光線が、口からは放射能を含んだ炎が発せられ、バックには無数のおどろ線が取り巻いている。

「は、はい、すぐ始めます!」

 突き刺さるような視線を感じつつ、平泉はハンカチで額の汗を拭き吹き、ようやく仕事に取り掛かった。

 ――実は、この中沢影吉は二重人格である。

 彼は普段は「ごくふつーの編集者・中沢」であるが、その裏には「冷酷な凶暴者及びサディスト・影吉」という、全く別人の性格をも持ち合わせている。で、ごく普通の場合は前者の「中沢」という面しか現れないのだが、精神が高ぶった状態になると、突如として「影吉」となるのである。平泉も、いくら彼との付き合いが長いとはいえ、まだまだこの特殊体質に慣れているとは言い難かった。

「おらおらおらおらあっ! 何だァこの下手な文章は! ……お前、一体作家業を何年やっているんだっ!」

「は、今年でちょうど15年目ですぅ」

「そうか。読者はこんな下手な文に、15年も付き合わされているのか」

「へえ、左様で」

 相手が「影吉」の時は、下手に怒らさない方がいいという事は、既に経験則で知っている。大人しく元に戻るまで待つしかない。

 という訳で。

 通常の数百倍の能率で仕事をしていた平泉は、突如影吉のテノールでその作業が中止させられた。

「……おい、ちょっと待て」

「はあ、何で御座いましょう、影吉様?」

「この文章は今すぐ書き直せ」

 平泉は影吉が指差す文をじっと見た。

 『周囲を取り巻く武装原住民達に対し、圭一は特上の投げキッスで答えた』

 約三分間の観察の後、中年SF作家は気の抜けるような声で尋ねた。

「……何かマズイ所でもありますかぁ?」

「この『原住民』って言葉、使っちゃいけねえ事くらい知らないのか?」

 影吉がねちっとした視線を浴びせると、平泉は間抜けな表情で首を傾げた。

「え、駄目なんですか?」

「当たり前だ」

「どーしてですぅ?」

「昨年、大阪で行われた『国際先住民シンポジウム』で、「原住民(native)」という言葉に対する使用禁止案が可決された事くらい知らねえのか?」

 この発案を行ったのは、「ユルスカ」と名乗る民族集団。

 彼らの主張によれば、「ユルスカ」は、今から四六三二年前から「ユルス」と呼ばれる土地――今で言うところの和歌山県と奈良県の県境付近――に居住してきた。呪術者を指導者とし、直接合議制に基づく政を長年にわたって行ってきたのだが、三七〇八年前に隣接するチュサック族の侵略を受け、彼らの植民地と化した。しかし、チュサックも二〇八八年前にヤマトによって滅亡。ユルスカはヤマトに吸収され、その後現在にまで至っている。

 ところが、二年前から、このチュサックの末裔と称する者達が、「日本国原住民保護法」に基づく第二級原住民指定を受け、保護を受け始めると、それまで鳴りをひそめていたユルスカが立ち上がった。あっという間に新聞・テレビを味方に付け、国に対し第一級原住民の指定を主張し、裁判ざたとなった。ちなみに、この件については現在も最高裁で争議中。

 ――という事情で、先述の事件が起き、結局「原住民」という言葉は、社会的に死刑宣告を受け、代わりに「先住民」が使用されるようになった、という訳なのだ。

「へへえ、さっすが影吉様。博学でいらっしゃる!」

 平泉は、もみ手をしながら、えへえへ笑った。

「お世辞を言っている暇があったら、さっさと書きな!」

 どこから持ち出したのか、影吉は金属バットを握りしめると平泉を目で抑圧した。

「これでヤキを入れられたくなかったら、今日中に終わらせるんだ!」

 へこへこしながら仕事に取り掛かる平泉であった。

 が、一分も経たない中に再び中止命令が出た。

「……お前、何を書いている」

「一応SFですが」

「違う。この文の事だ」

 『圭一のガウンの下から現れた、赤いふんどし姿は、尚子を魅了した』

「今度は何がいけないんですか、影吉様?」

「これですよ、これ」

 いつの間にか「中沢」に戻っていた若い独身編集者は、一つの言葉を指差しながら申し訳なさそうに言った。

「この『ふんどし』ってのが駄目なんです。すみませんが、書き直して下さい」

「はあ?」

 中沢の説明によると、次のような理由からである。

 数年前、「ひとのふんどしですもーをとる」という諺を使ったある作家が、人権保護団体に「男女差別だ」と抗議される、という事件が起こった。

 これを「ばかげている」と思うのは、あなたがその当事者ではないからである。

 実際には、この事件はマスコミの無慈悲なあおり立てにより、あらゆる評論家・学者その他大勢を巻き込んだ大論争を引き起こし、ついにはその作家を断筆まで追いつめてしまったのだ。しかも、論争はそれでもまだ終わらなかった。各社マスコミ(特に女性週刊誌)は、一年以上続いたこの低レベルな言い合いを十二分に利用した。

「ふんどしを着用している男性の七三パーセントは知能指数が平均以下!!」

「恐怖・ふんどしに潜む細菌!」

「相撲の力士は、日頃まわしを付けている為に平均寿命が短いっ」

 などなど。

 ……何とばかげた話であろう。

 しかし、科学的に根拠のない論説の断続的な排出は、ついに民衆に強烈な誤解を植え付けてしまったのだ。これは、数十年前にナチスドイツの国民啓蒙宣伝大臣ゲッペルスの行った世論操作が、ここ日本においても通用する事を証明した実験結果とも言える。

 とにかく、世の中には色々と使ってはいけない言葉があるのだ。

 ――と言っている間に、またもや中断命令。

 平泉は大きくため息をつくと、うんざりした面持ちで原稿用紙を見た。

 『迷彩色の水着に着替えた嫁は、まるでヤママユガのようであった』

「ひょっとして『ヤママユガ』がいけないとか――?」

「いえいえ、その『嫁』っていう漢字を書き直してもらえば結構です」

 日本語の言葉には、一つ一つに重要な意味があると言われる。『言霊信仰』という概念は、それを端的に表現したものである。

 で、世の中にはそういう事に敏感な人達が五万といる訳で。

 やれ「父兄」という言葉は、女性差別だとか。やれ「調子」という漢字は、「子」を「調教」するというイメージがあるから使ってはいけないとか。

 ――等々。

 で、この「嫁」という文字も、「家ん中に閉じこめとく女が嫁っつうのは女性に対する差別意識の現れだあ」という理由により、今では差別用語の一つとカウントされており、その使用が厳しく制限されているのが実状。

 誤って使ったら最期、平泉の作家活動にも終止符が打たれてしまうであろう。

「それと、ここの『鯨飲』って言葉もやめた方がいいですね。鯨に対する悪口は、ワイドショーのネタにもなりかねませんから」

「……せっかく辞書で調べた難しい言葉なのになぁ……」

「とにかく、今の世の中は『女性人権問題』、『子ども権問題』、『環境問題』の三大問題に必要以上に振り回されていますからね」

「はぁ」

「――っと、『海豚』もひらがなにした方がいいでしょうし、『馬の耳に念仏』なんて諺使っちゃいけませんよ。あっ、『ファミコン』なんて、登録商標まがいの言葉を使っちゃいけませんって。最近は企業からの苦情もうるさいんです。だから、この『コカコーラ』も今すぐ消してもらわないと。作家だったら、これ位のマナーは当然ですよ。ああ、この『ジョン・レノン』とか『JFK』っていう、実在有名人の名前を軽々しく使うのだってマズイですよ。使うんだったら、使用料を払ってからじゃないと。えっと、それからこれとその文章とですねえ……」

「…………」

「――ったくぅ、あ、他社の出版物名なんか入れちゃ駄目だって前から言っているじゃないですか。ああぁ、こんな事じゃいつまでたったって書けないじゃないですか。……弁慶先生ぇええ、あなた、この業界から追放されたい――っつうのかっ!? ほう、上等じゃねぇか! ええっ! うおるあああああああっ! 貴様ァ、この俺の大事な時間を無駄にしようっつう目論見かっ」

「い、いえ……え」

「これも、これも、これも、これも、これも今すぐ書き直せっ」

「ひぃぃぃいいいいいいいぃぃぃぃぃ」

「……『宇宙人』も駄目、『バイオ』だって駄目っ、『原発』なんて使用法はもってのほかだ! ……なにぃ、『北鮮』だ――!? 貴様、東京に水爆を落とされたいのか? ええぇっ!?」

「すみません、すみませんっ、すみませんっ!」

「『マッドサイエンティスト』『水商売』『ドラッグ』『外人』、――どれもこれも駄目だっっつうただろがっっっっっ!」

「はっ、はい、ただ今訂正させて頂きますぅ」

 汗と涙をだらだら流しながら、平泉は万年筆を必死に動かし続けた。

 しかし、またまた作業を遮る影吉の声がかかった。

「おいっ」

 どんと机を拳で強く叩くと、平泉を見据えた。

「な、なんでしょうか……」

 怯える平泉に対し、影吉は物の怪のようなおどろおどろしい声で言った。

「……これじゃあ、いつまでたってもオチの付けようがねえじゃないか――っ!!」