その手を伸ばして (二)

 僕が所属するインターネット上の文芸サークルに初めてチトセが顔を出したのは、年の瀬が迫った昨年の十二月末のこと。最初はアクティブなメンバーが一人増えたくらいの認識しかなく、特に気にも留めていなかったが、年が明けた一月の中頃、僕が昔に書いた小説を読んでみたいと彼女からメールを受け取ったのをきっかけに、個人的なやり取りが始まった。

 メールの内容も初めのうちは自分達が書いた小説や読んだ本の感想だったが、回数・頻度が増えるにつれてテレビドラマや好きな音楽などの話題に変わり、互いのプライベートも少しずつ混じるようになった。

 チトセに関する小さなピースを集めて組み立てると、山口県下関市に住む高校一年生(今は学年が変わって二年生)の女の子だということが分かった。部活は水泳部。両親との三人暮らし。僕と同じく、趣味の読書が高じて自分でも小説を書くようになったとのこと。ハンドルネームとして使っているチトセという名前は本名から取ったと聞いている。きっと漢字で「千歳」と書くのだろう。

 やがてメールだけでは飽き足らず、夜の決まった時間帯にチャットをするようになった。普通の生活をしている限りは出会うことも話すこともありえない距離と年齢差だが、それが特別なことだとは意識もせず、純粋に会話を楽しんでいた。

 チトセとのやり取りが日常の一部になった頃、確か五月中旬だったと思うが、四、五日ほどチトセと連絡が取れなくなったことがあった。後から風邪で寝込んでいたと聞いたが、再び連絡が取れるまでの間、何とも言えない落ち着かない時間を過ごした。この時になって初めて、僕の中で整理できていなかったチトセへの感情が、実は恋愛ではないかということに気が付いた。一回り以上も年下、しかも顔も声も知らない相手だ。電子の海の向こうにいるという、会ったことのない少女を恋愛対象として見ていたことに、僕は他人事のように驚いた。

 ――それまで好きになった相手は、少なくとも一度は顔を合わせたことがあり、声を聞こうと思えば聞くことができ、触れようと思えば触れることができた。だが、チトセの場合は違った。キーボードとディスプレイを介し、文字でしかコミュニケーションができない関係。見ることも話すことも、触れることもできない。相手のことをもっと知りたいと思う以上に、ちょっとしたきっかけで壊れてしまいそうな微妙な関係を守りたいという思いが勝り、画面の上では気軽に話しながらも不安と焦りが心の内を占め、慎重に言葉を選ぶようになっていた。

 だが、いつまでもこのままでいるわけにもいかない。優柔不断な僕の心の中で、自分の気持ちに決着を着けたいという思いが次第に強まってきた。

 六月下旬のある日の夜、雨がやまなくて蒸し暑いとか、そろそろ期末テストだとか、いつものようにそんな話から始まったチャットの中で、僕は思い切って言ってみた。

『今度の夏休み、もし時間が合えばそっちでチトセに会いたいけど、いいかな?』

 半年の付き合いとはいえ、文字の上でしか言葉を交わしたことのない間柄だ。直接にしろ遠回しにしろ拒否されるだろう――そんなことを考えていると程なく返事が来た。

『うん、いいよ。でも下関ってなんにもないよ?』

 その飾らない一言が、僕の小さな勇気を後押しした。