地学の達人 −Survey 2 Plus−

 潮の満ち引きする音が、夜風に乗って優雅な小夜曲を奏でている。

 眩いばかりの満月の陰と夜景とに彩色された水面は、船舶が時折通り過ぎ行く度に、何とも言えない美しい幾何学模様を描く。

 防波堤の上に、一組の男女が認められた。

 二人は海を眺めていた。

 肩を寄せ合い、ゆったりと波打つ水面を見つめ続けていた。互いに黙ったままであったが、隣の相手の存在、ただそれだけで十分だった。

 二人だけの甘美な時間が過ぎていく。

 ――突如、汽笛の音が藍色の空気を振るわせた。

 長い、長い、汽笛だった。

 それを合図に、静止していた時間が再び動き出した。

 突然男は背を向けると、靴底を鳴らしながら歩き始めた。

 女が静かに見守る中、男は数歩進んだ所で立ち止まった。そして、落ち着いた動作でコートの内ポケットに手を入れると、中から白色無地の包装紙に包まれた小さな箱を取り出した。

 男は包みを握りしめると、真剣な表情で女の方を振り返った。

「君に、渡したい物がある」

「…………」

 女は無言のままゆっくり近づくと、男の手を包み込むようにそれを受け取った。

 そして、相手の目を見ながら、少し震えた声で言った。

「……開けてもいいかしら」

「ああ」

 包装を解く紙の音が、静寂な港に響く。

 中から現れたのは、ダイヤモンドの指輪であった。

「これをわたしに……?」

 女は箱の中身に視線を落としたまま、独り言のように呟いた。

「ああ。もちろんだ」

「…………」

「ん? どうした? 嬉しくないのか?」

 女は男の問いに答える代わりに、やおら自分のハンドバッグを開け何やらごそごそと探し始めた。

 当然、すぐさま感謝の言葉が返ってくるとばかり思っていた男は、不意を衝かれた形となった。

「ど、どうした!?」

「……あった。あった。これよこれ」

 やがて女はバッグの中から筆箱大の木製のケースを取り出した。

「…………?」

 男は首を傾げながら、何気なく女の手元を覗き込んだ。

 中には種々様々な石が整然と並んでいた。

「さてと。これ、一度やってみたかったんだー」

 これから何が起こるのか知らない男をよそに、突然、女は指輪を手に取ると、先程の石片の一つに擦り付け始めた。

 男にとってまさに「寝耳に水」な出来事であった。

「……な、なな!?」

 男はようやく呪縛から開放された。

「なっ、なっ、なっ、何だそれはっ!?」

「え? これ? 『モースの硬度計(*)』よ」

 女は男の方を振り返ると、さらりと受け流した。

「あなた知らないの? 学校で習わなかった?」

「ど、ど、どうするつもりだ!? ダ、ダイヤモンドの指輪だぞ!?」

「そんな事、見れば分かるわよ」

「俺の給料半年分……」

「いやぁね。心配しなくても大丈夫よ」

 焦り取り乱す男に向かって、女はからからっと笑った。

 自分の行動に微塵も疑いも持っていないと言わんばかりの笑みであった。

「あのね、ただ、ダイヤが本当に硬度一〇なのかなーって、試してみたかっただけ。ほらほら、見て。どこにも傷がついていないでしょ? だから大丈夫って言ったじゃない。あなたって意外に心配性なのねー」

「…………」

 指輪を玩具のように扱う女を横目に、男は心の中で自問した。

 ……神様……。

 ……これは、彼女への愛が本物なのかどうかを試す試練なのでしょうか……?

(*)モースの硬度計

ドイツの鉱物学者モースが考案した、鉱物の硬度(硬さ)を比較する為の鉱物の組み合わせ。これと試料とを互いに引っかき合い、どちらに傷が付くかを確かめる事によって、試料の硬度を決定する。(1) 滑石 〜 (10) ダイヤモンド まで十種類の鉱物で構成されており、数字が大きくなるほど硬度が増す。

◆留意点

理系の研究者、特に地学者にとって、日常生活で接する全ての物が研究対象である。中でも特に、宝石類に対する貪欲な興味は尋常ではない。