深海花(ふかきうみのはな)

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六月七日(火)

 僕には理解できなかった。自ら生きる権利を放棄した人がどうしてこんなに柔らかに微笑んでいるのか。死んですべてを無に帰することを心から望むほど苦しい時間を過ごしてきたというのか。まるで永遠に目覚めぬ夢を楽しんでいるような表情だが、もしそうならばある意味、羨ましい話なのかもしれない。いつか最期の瞬間を迎えたときにこのように微笑むことができるだろうか――今の僕にその自信はない。

 四年振りに実家に帰ってきた姉は冷たい檜木の棺で静かな眠りについていた。その顔があまりに安らかだったためか死んだという実感が沸かなかった。だから、別れの言葉は言いたくなかった。

「おかえり。そしておやすみ、姉さん――」

六月八日(水)

 前日の通夜もそうだが葬儀のこともあまりはっきりと記憶にない。喪服代わりに濃い紺色のブレザーに黒ネクタイを着用して父の横に座り、訪れる一人一人に頭を下げていた。時折、防虫剤の匂いに参列者の噂話が混じって聞こえて来たが、どれも若くして命を絶った姉の人生を邪推するものであまり気分のいい内容ではなかった。途中で青柳の叔父たちや小中学校時代の同級生が言葉を掛けてくれたはずだが、何と言ってくれたのかもまともに覚えていない。ぼんやりと聞き流していたようだ。

 気づいたときには親戚の人たちと一緒に火葬場まで来ていた。だが「急用ができたから」と適当な理由をつけて自分のアパートに引き上げてしまった。言い訳はしない。骨揚げするのが、骨と灰になった姉を見るのが怖くて逃げ出したのだ。逃げたところで姉が死んだという事実は変わらない。いつの日か、きちんと別れの挨拶をしなかったことを悔やむに違いない。頭では分かっていた。分かってはいたがそれでも、ついこの前まで生きていた人が物言わぬただの物質に変わるという事実を受け入れたくなかった。だから逃げた。それ以上でもそれ以下でもない。

 姉の死の知らせはおとといの夜に父から電話で聞いたが、自殺に至った経緯については一切知らされていない。それとなく父に尋ねてみたが、何も答えてはくれなかった。あの口振りでは知っているのか知らないのかすら定かではない。

 元来、父はそういう人だ。無口というわけではないが、自分が言いたくないことについては誰が何と言おうと頑として口を開かない。僕が生まれて間もなく亡くなった母のことについても、幼い頃からからどんなに頼んでも教えてくれなかった。おかげで今なお母については顔写真すら見たことがなく、親類から聞いた噂話の範囲でしか知らない。「内なる感情は決して表には出さない」という強い意志を発する父の背中を見続けた僕、そして亡くなった姉も同じタイプの人間に育った。滝沢家の人間は常日頃からポーカーフェイスであることを家訓としている。

 そうはいっても姉が自殺した理由について気にならないわけがなく、親しい親戚の何人かに当たってはみたが、誰も正確な情報を持っていなかった。母だけでなく姉の死についても永遠に謎のまま――そう思っていた。

六月九日(木)

 二日振りの大学だった。これまでよほどのことがない限り講義を休んだことがなかったので周りから来なかった理由を聞かれたが、親戚が亡くなったと言うとそれ以上は追求してこなかった。普段からあまりプライベートのことを話しておらず一定の距離を取っていたという理由もあるだろうが、友人たちのささやかな気遣いに心から感謝した。

 昼休み中、学食での食事を終えてそのまま友人たちと雑談をしていると突然、携帯電話が鳴り出した。非通知コールだったので席を立ち、離れたところで通話ボタンを押して耳に当てた。

「失礼致します、こちらは滝沢司様のお電話番号でよろしかったでしょうか?」

 声の調子からすると四、五十代の男性で県警捜査一課の大島と名乗り、丁寧な口調で突然の電話の非礼を詫びた。驚いて曖昧に返事をするのが精一杯でいると、相手は落ち着いた声で話を続けた。

「不躾ですがお願いがありまして、先日にお亡くなりになったお姉さんの件でお話したいことがありますので、差し支えなければ本日、少しお時間をいただけないでしょうか」

 動揺している頭の中を落ち着かせながら考える。どこでこの番号を知ったのだろう。父から聞いたのだろうか。それとも友人の誰かだろうか。いや、そんなことよりも問題は警察が僕に何の用があるのかだ。姉のことでわざわざ僕に会って話そうという内容は何だろう。姉の死因は自殺と聞いているが本当は違って、何かの事件に巻き込まれたのだろうか。ひょっとしたら姉の件で話したいことがあるというのは単なる口実で、別の目的があるのかもしれない。そもそも電話の相手が警察ではないという可能性もゼロではない。――情報が乏しく考えがまとまらなかったがあまり相手を待たせるわけにもいかないので、会って話をしてみれば分かることだと腹をくくり、大学の講義が終わった後に落ち合うことにした。

 待ち合わせ場所として指定したのは地下鉄で大学最寄り駅から三駅離れたところにあるシックなレンガ造りの喫茶店で、説明し易い場所にあるという理由もあるが、何より知り合いに警察と話しているところを目撃されたくなかったのでここを選んだ。

 先に行って相手をじっくり観察しようと予定の三十分ほど前に到着したが、店内に入ると奥の窓際の席にそれらしき人物が既に座っていた。四十代前半と思しき男性で、軽めの私服――クリーム色のポロシャツに黒のスラックスを身に着けているが、気難しい表情で手帳をめくる姿は厳格な警察官そのものだった。男性は僕に気がつくと立ち上がり、目元に笑みを浮かべて手招きをした。やはりこの人が大島さんのようだ。肩のナップザックを掛け直し、男性のいる席まで移動した。

「はじめまして、大島です」

 いきなり握手を求めてきたので少し照れながら手を差し出した。意外とがっしりとした手の平だったが、やんわりと包み込むように握ってきた。

「滝沢です。お待たせてしてすみませんでした」

「予定より随分と早いし、こちらもさっき来たばかりだよ。まあ、座って」

 思ったより話し易そうな人のようだ。ほっとした気分で荷物を肩から下ろして向かいの席に腰掛けた。何げなくテーブルを見やると縁に押しやった灰皿に吸い殻が何本も入っており、またコーヒーカップから湯気が上がっていなかった。嘘が下手なのか社交辞令として言ったのかそれとも僕を試しているのか――考え過ぎだろう。程なくウェイトレスがやって来て水とおしぼり、メニューをテーブルに並べ、灰皿を交換して立ち去った。

「本当は葬式の後で話を聞こうかと思っていたのだけど、会えなかったものだから呼び出してしまった。本当に申し訳ない」

 葬式の後――火葬場から逃げ出したことを思い出して胸の奥が痛んだ。

「……こちらこそすみませんでした」

「君が気にする理由はないよ」

 大島さんはフランクな口調でにこやかに話し掛けてくる。恐らく職業柄に身についた話術で、相手が見た目通りの二十歳の学生だと知って態度を変えたのだろう。だが最初の電話での受け答えや僕を待っていたときのイメージとのギャップが大きく、かえって警戒心を抱いてしまうのも確かだった。

「あの、姉のことで話したいことがあるというのは――」

「先に飲み物でも注文したら?」

「あ、そうですね」

 相手が警官ということで自分でも気づかないうちに緊張していたようだ。とりあえずメニューを開いてみたが落ち着いて選べそうになかったので、店員を呼んで適当にアイスコーヒーを頼み、冷えたおしぼりで手を拭きながら大島さんが口を開くのを待った。

「さてと。本題に入るけど君は香奈さん――お姉さんが亡くなったことについてどこまで知っているのかい?」

 しばらく会っていなかったこともあり、自殺したという話を父から間接的に聞いているだけだと答えた。

「ふむ、そうか。じゃあ私から一通り話そう」

 手帳をめくりながら大島さんは説明を始めた。

 ――現場は姉が一人暮らしをしていたアパートの自室で、六月三日の午後十一時三十二分に近くの公衆電話ボックスから匿名の一一九番通報があった。通報から約十分後、血溜まりの中で仰向けに倒れているところを駆けつけた救急隊員によって発見された。すぐに救急車に運ばれ車中で蘇生措置が施されたが既に事切れており、二度と目覚めることはなかった――。

 注文したアイスコーヒーが来たので、一旦、説明が途切れた。トールグラスにミルクを注ぎながら尋ねた。

「先ほどの話にあった匿名の通報者というのは何ですか」

「言葉の通りだよ。通話記録からも恐らく男性だろうということしか分かっていない。アパート名と部屋番号をオペレーターに告げ、『すぐに来てくれ』とだけ言って切れたらしい」

「救急隊が来たときに部屋の鍵は開いていたのですか」

「玄関の扉は施錠されていたので、大家に開けてもらったそうだ。窓の鍵もすべて閉まっていたらしい」

「そうですか」

「とりあえず続けていいかい?」

 無言で頷くと大島さんは説明を再開した。

 部屋に遺書らしきものは残されておらず、また不審な通報者の件もあって事件の疑いがあるため、姉の遺体はすぐに司法解剖に回された。鑑識の結果、直接の死因は現場に落ちていた包丁で左手首の動脈を切断したことによる出血性ショックであり、また死のおよそ二時間前に大量のアルコールと睡眠薬を飲んでいたことも判明した。一方、捜査員を動員して現場検証や聞き取り調査が行われたが特にこれといった証拠がなかったため、捜査の早い段階で自殺と断定された。

「…………」

 説明を聞いているうちに不安、そして苛立ちが募ってきた。なぜこのような情報を僕に伝えようとしているのだろう。真意が分からない。遺族への事情説明が目的ならば、もっと内容や言葉に気を使うべきだ。あまりに無神経すぎる。淡々とした言葉で姉の死を表現されるのは正直、耐えられなかった。

「……今の話ですが、僕に話してしまってもよかったのですか」

 顔を上げた大島さんは「えっ」という表情で僕を見たが、すぐに照れ笑いをしながら頭をかいた。

「そうか。ははは、それもそうだな。じゃあ、聞かなかったことにしてくれ」

「…………」

 呆気に取られた。ここまで話しておいて聞かなかったことにする? しかも笑ってごまかそうとした? 胸の内から込み上がってくる感情を抑える。相手が警察でなければすぐにでもこの場を立ち去りたかった。はっきり言ってどこまで本気なのか判断ができない。本当に警察官なのか、それすら疑わしい気になってきた。

「具体的にどこをどう聞かなかったことにすればいいのですか?」

 相手の目を正面からじっと見ながら、言葉に非難の意を込めて言った。

「そうだな――申し訳ないが、他の人に知られたらまずい話は黙っていてくれないか。判断は君に任せるよ」

「はあ」

 第一印象から何となく掴み所がない人だとは思っていたが、それどころではない。偏見かもしれないがここまでくると無責任を通り越して作為的な匂いすら感じてしまう。言い方を変えるとわざと僕に情報を明かしたと受け取れるが、仮にそうだとしてなぜなのか理由は分からない。

 ――いや、心当たりがないわけではない。この人は初めに捜査一課に所属すると名乗った。うろ覚えだが凶悪犯罪を扱う部署だった気がする。それならば姉の死を自殺ではなく殺人事件と見なして捜査をしており、僕は重要参考人、場合によっては被疑者として見られているのではないか。しかし、仮にそうだとしてもここまで情報を漏らす理由にはならない。単に不用心なのだろうか。しかも刑事ならば二人一組で行動するはずなのにこの人は単独行動を取っている。少なくともこの店内に相方はいないようだ。どうにも相手の意図・目的が読めないので、質問を変えて少し様子を見ることにした。

「ところで姉はどこに住んでいたのですか」

「ああ、それなら答えても大丈夫そうだな」

 大島さんはなぜか嬉しそうに頷くと警察手帳に挟んであった紙切れを抜き取り、手帳を見ながらボールペンで書き写して僕の前に置いた。手に取って見るとそこに書いてある住所は外れではあったが同じ市内で、実家からもさほど離れていなかった。

「もしそこに行くつもりなら、隣に住んでいる大家を訪ねてみたらいい」

 顔を上げると大島さんは微笑んで僕を見つめていた。何のために僕が姉の住んでいたアパートに行くというのか。なぜそんなけしかけるようなことを言うのか。この人は何を企んでいるのだろう。分からない。何を考えているか本当に分からない。

 さらに大島さんはふと思いついたような口調で付け足した。

「そうそう、香奈さんが昨年の秋に離婚していたのは知っていたかい?」

「…………」

 しばらく言葉が出なかった。離婚どころか結婚の話すら初耳だった。今さら無駄だと分かっていたが平静を装いつつ尋ねた。

「その話は本当ですか」

「驚くのも無理はない。君のお父さんもこのことを知らなかったみたいだから」

 大島さんの言葉をそのまま受け取ると、父は少なくとも姉の結婚について知っていたということになるが、実際のところはどうだろう。本当はすべて承知の上で警察を相手に知らぬ振りを通し、僕にも話すつもりはなかったのではないか――十分にあり得る話だ。

 それよりも姉だ。結婚と言えば本人にとってそれなりに重要なイベントなので、普通ならば家族くらいには伝えるものではないか。周りから祝福されないため自分たちだけで密かに籍を入れてしまうケースはときどき聞くが、それでも何らかの形で事後連絡はするような気がする。知らせがなかったのはなぜだろう。実は込み入った事情があったのだろうか。父は本当に姉の結婚・離婚を知らなかったのだろうか。やっぱり知らなかったのは僕だけではないだろうか――。

 僕の不安をよそに大島さんは話を続けた。姉の結婚相手だったのは橋場隆一という男性で、二十代後半にしてIT関連の会社を経営しているらしい。それほど業界に詳しいわけではないがまったく耳にしたことがない社名だったので大手ではなさそうだ。あとでネットで調べてみようと思った。

 顔写真があるかと尋ねると、大島さんは手帳から取り出した写真を机の上に置いた。えんじ色の高級そうなスーツに身を包み、マリンブルーの細いフレームの眼鏡を掛けたオールバックの青年。口元に微かな笑みを浮かべているが眼鏡の奥から鋭く冷たい目が真っ直ぐ僕に向いている。――間違いない、この顔には見覚えがある。先日の通夜の参列者でただ一人、無愛想な表情で玉串を供える姿がたまたま記憶に残っていた。亡くなった姉の異性の趣味に口を出すのは野暮な話だと分かってはいるが、第一印象としては姉の結婚相手らしくないと思った。

 その後、僕と父の近況について幾つか尋ねられたが、当り障りのない質問だったので普通に答え、最後に「もし何かあったらここに連絡をしてくれ」と一枚の名刺をもらって大島さんと別れた。

 近所のラーメン屋で夕食を済ませてアパートに帰るとバルコニーに出た。僕が住んでいるアパートは高台にあり、眼下に夜景が広がっている。遠くに建設中の高層ビルがぽつんとそびえ立ち、その頂上のクレーンの灯りがまるで灯台のようだ。ちょうど朔に当たるのか周りを見渡しても月が見当たらない。地上の明かりで白く濁った夜空がどこまでも広がっている。晴れてはいるが空気が重い。雨が近く湿度が高いせいだろうが、気分的なものなのかもしれないとも思う。

 夜風が吹き過ぎる。ねっとりと肌に絡み付くような空気の流れは不快感を増すだけだった。目に見えない圧力が全身を襲う。肺の奥底が苦しい。まるで海の中に投げ出されたようだ。

 突如、頭の中でイメージが像を結んだ。砂浜に打ち上げられて間もない人間と魚の死体。どちらも生命活動を停止していることは共通しているが、そこに至った理由が異なる。人は海中で何を見たのか。魚は陸上で何を見たのか。連鎖的に姉の死に顔を思い出す。痛かったはずなのに苦しかったはずなのに、まるで心から嬉しそうに微笑む青白い顔。命の灯火が消える最期の瞬間に一体何を見たというのだろう。何を考えたというのだろう。分からない。いや、今はまだ分かりたくないと思った。

六月十日(金)

 どうしようか迷ったが結局、大学が終わったその足で姉が住んでいたアパートに行ってみることにした。帰宅時間には早いのか幾分空いたJRの車両に乗り込むと、扉近くの手すりにもたれて単行本を開いた。だが、どうしても印刷された文字が言葉として頭に入ってこない。仕方なく本を閉じて鞄にしまい、ぼんやりと吊り広告に目を向けた。

 内部告発、不倫、素性暴露――読者を引き付けようと週刊誌がスキャンダラスな売り文句を並べている。記事の真偽は別にして当事者たちは悠長なことを言っていられないに違いないが、僕には小説や漫画と同レベルの話としか伝わってこない。犯罪者や芸能人、政治家たちが僕とは違う世界の人間だからだろうか。どうもそうではない気がする。

 突然、車内に若い女性の乾いた笑声が響いた。声の方に顔を向けると、やや離れた席で学校帰りと思しき女子高生が大きく足を組み、携帯電話を片手に大声で話をしていた。周囲の乗客たちが迷惑そうに顔を背けている。かく言う僕も傍観者なので偉そうなことは言えないが、彼女の人生は周りの人々にはとうてい理解できないに違いない。だが、楽しそうに会話をしている電話の向こうの相手すら、同じ話題と感想を共有しているつもりでも実は異なるかもしれない。――コミュニケーション・ギャップ。他人の人生を完全に理解することは不可能だと僕は思う。

 目的のアパートは築後年数がかなり経過した鉄筋コンクリートの建物で、古いということ以外に形容すべき言葉が見つからなかった。外から見ると二階建ての計八室で、ひとつひとつの部屋のサイズはそれほど大きくない。とりあえず大島さんに教えてもらった通り、隣の敷地に一軒家を構える大家を訪ねてみることにした。

 応対してくれたのは八十は下らない人当たりのいい老婦人で、滝沢香奈の弟だと名乗ると客間に僕を通し、丁寧に煎茶とお茶請けを出してくれた。手短に事情を話すと老婦人は自分の孫が死んだかのように悲しがった。

「いつも家賃を払ってくれるときに、こんな老人の話を聞いてくれるいい子だったよ。まだ人生これからだったろうに……」

 そう言ってハンカチを取り出し目頭を押さえた。恐らく警察から一通りの事情を聞いており初耳ではないはずだ。しかも大家にしてみれば所有する物件で店子が自殺したというのは決して喜ばしい話ではない。それでも姉の死を心から悼んでくれる老婦人の姿に自然に頭が下がった。もし僕が死んだらどれだけの人が悲しんでくれるのだろうか。

 話によると老婦人は姉の自殺をそれとなく予感していたらしい。姉は死の直前に今月分だけでなくさらに三ヶ月先までの家賃をまとめて支払ったそうだ。だがそれ以外に特に不審なところはなかったので、まさか本当に自殺するとは思わなかったと語った。この世を去った後のことまで気にしながら死んだということは、少なくとも計画的だったということだ。死に対する静かな、だけど力強い意志を感じた。

 遠慮がちに、可能ならば姉の部屋に入れて欲しいと頼むと、老婦人は朗らかに笑いながら、「九月末まではあなたが自由に使って構わないのよ」と快く鍵を渡してくれた。

 二階の端に位置する姉の部屋は、一言で言えばがらんとした空間だった。トータルスペースは五畳半だろうか、入り口を入ってすぐ横に台所があるが風呂もトイレもない、畳敷きの小さな部屋。中身が空の小型冷蔵庫とトースターレンジ、部屋の隅に畳んである小さな丸いテーブルと衣服の収納ボックス――それ以外に目につくものがない。押し入れも開けてみたが夜具が一式入っているだけだった。本当にそれだけの空間。二十代の女性が暮らすにはあまりにも質素な部屋だ。思い返すと実家で暮らしていたときも、姉はほとんど自分の物を持たない人だった。

「欲しいものをいざ手にしたら、いつか手放すときが来るのが怖いっていう気持ち、司は分かる? 欲しいなと思いながら夢見ているうちが一番楽しいの。だからわたしはこれで十分」

 あれは姉が高校生、僕が中学生くらいの時分だったか、そう言って目を細めて笑ったことがあるのをふと思い出した。本音かもしれないし、贅沢ができない家計を思いやった母役としての意見だったのかもしれない。どちらにしても姉らしい発言だったと思う。

 灰褐色の壁と天井、真東に面した窓、畳張りの床。ちょうど部屋の中央にある二畳だけが周囲とは異なり真新しい鴬色をしている。きっと自殺現場に違いない。赤黒い血を吸って汚れてしまった畳が後で取り替えられたのだろう。その場所まで行くと大の字になって寝転んだ。真新しいい草の香りを鼻腔で感じながら、照度が落ちてちらつき始めた蛍光灯をぼんやりと見つめる。

 ――人知れず結婚し離婚した姉は、なぜこのような場所で生活をしていたのだろう。もし自分が姉の立場だったならば、理由はどうあれしばらくは静かに暮らしたいため、知り合いに出会う可能性がある場所は避けようと思うはずだ。ここならば大丈夫だと思っていたのだろうか。それともここにいたいという積極的な理由があったのだろうか。それは自殺に関係することなのだろうか。

 目を閉じると静寂が一気に襲い掛かってきた。自分のアパートにいるときはよくミニコンポなどで音楽を流しているので、無音であることに得も言われぬ圧迫感を感じる。音のない空間は五感を研ぎ澄まさせ、自分のすべてをさらけ出す。この感覚――そうだ、初めてスキューバダイビングで海に潜ったときに感じたものと似ている。どこまでも行くことができるという解放感、そして果てしなく続く深く冷たい闇への恐怖心。文明社会で生きる人間が自分のテリトリーから外れて初めて感じる己の小ささと自然への畏敬。否定する人がいるかもしれないが、この街も大局的に見れば自然の一部であり、自由ではあるが苛酷な環境で姉は生き延びることができなかったということになるかもしれない。

 あれこれ考え事をしているうちにそれまで感じていた息苦しさは次第に薄れ、いつしかゆっくりと意識が遠ざかっていた。

「何をしているの!」

 突然の女性の声に驚いて飛び起きた。周りを見回すと鍵を閉めたはずの玄関の扉が開き、誰かが立っていた。一瞬、何が起きたのか理解できなかった。

「すぐに出て行きなさい、警察を呼ぶわよ!」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 別にやましいことはしていなかったが相手の見幕に僕は動揺した。慌てて戸口まで走るとGパンのポケットから財布を出し、中から運転免許証を抜いて相手に差し出した。

「滝沢司といいます。この部屋に住んでいた滝沢香奈の弟です」

 女性は免許証にちらりと視線を走らせたがすぐに顔を上げ、僕を睨んだ。

「それならそうと先に言いなさい。てっきり香奈のストーカーかと思ったじゃない」

 僕は苦笑いしたが、とりあえず幾分か警戒を解いたようなのでほっとし、改めて相手の女性を観察した。自分とあまり変わらないか少し上――姉と同い年だろうか。ボーイッシュなセミショートカットが夕風にふわりと揺れる。澄んだ黒い瞳。水色のサマーセーターに黒のジーンズが様になっている。手元を見ると鍵の付いたキーホルダーを持っている。きっとあれでドアを開けたのだろう。何者かは分からないが少なくとも悪人ではなさそうだ。

「失礼ですが姉の知り合いですか?」

「一応、友達かな」

 女性は表情を変えずに言った。恐らく友達と言う言葉に嘘はないだろう。姉を名前で呼び捨てにし、合鍵でこの部屋に自由に出入りしているのだから、かなり親しい間柄だったに違いない。そして、演技でなければ姉が死んだことをまだ知らない。伝えるべきかどうか迷ったが、姉の友人ならば僕が黙っていてもいつかは知ることであり、それにこの人に嘘はつけないと直感が訴えた。

「教えてください。さっき僕のことをストーカーだと思ったと言いましたけど、姉は誰かにつきまとわれていたのですか?」

「もちろん冗談に決まっているじゃない。それとも、何? 心当たりでもあるの?」

 やや軽い口調だったが相手の目はあくまでも真剣だった。

 僕は一呼吸置いてから言った。

「先日、姉は自殺しました」

「…………」

 予想通り女性は息を飲むと表情を曇らせた。だがそれもほんの一瞬のことで、すぐに鋭い目つきで僕を見返した。

「だからさっきから過去形で話しているのね」

 思ったより動揺していないところをみると、何か思い当たる節があるのだろうか。それが何なのかは分からないが、まだ僕の知らない情報を持っているのは確かなようだ。僕は頭を下げた。

「何でも構いません、姉について知っていることがあったら教えてください」

「…………」

 頭を下げたまま待っていると、やがて女性は両手を腰に当て大きくため息をついた。

「話が長くなりそうだから、とりあえず外へ出ましょうか」

 道すがら相手は高田いずみと名乗った。姉とは短大入学以来の付き合いで、卒業後もしばしば顔を合わせていたという。姉が自殺したのはちょうど一週間前の六月三日だと話すと「やっぱり」と呟いた。前日に携帯メールが届いたが内容が真面目な感謝の言葉だった上に、その直後から音信不通になってしまったので、ずっと気になっていたという。そんな折にたまたまここを通りかかったところ部屋の明かりが付いていたので不審に思い、ドアを開けてみたということらしい。高田さんの気持ちも分からないわけではないが、もし僕が彼女の言うストーカーだったらと考えると軽率な行動だと言わざるを得ない。いや、正義感が強く危険を承知で踏み込んだのかもしれない。

「ところでさっきは何をしていたの?」

「考え事をしているうちにうとうとしていました」

「……寝ていたの?」

 高田さんは急に立ち止まると近づいて僕を見上げた。相手の呼吸が感じられるくらいの距離。間近で見つめられてドキッとした。

「あなた、怖いとは思わなかったの? 実の姉弟とはいえ、あの部屋って香奈が自殺した場所なんでしょう?」

「幽霊の類は信じていませんから」

「ああ、もう、そういう問題じゃなくて……えっと、何て言えばいいのかな、他の人なら気持ち悪がるわよ、絶対に」

 それはそうかもしれない。普通は好き好んで死者の匂いの残る空間にいようとはしないだろう。自殺現場、それも直後ならなおさらだ。自殺者の負の意識というか怨念というか穢れというか、非科学的ではあるがそういうものに触れたくないという感覚は分からないわけではない。

「姉が亡くなったという実感がまだあまりないからかもしれませんが、別に気持ち悪いとは思わなかったですし、それに姉のことを考えるにはあそこが一番と思っただけです」

 分からないという風に高田さんは首を振った。

「幾ら考えたって、亡くなった人が戻ってくるわけじゃないのよ」

 さっと夕風が抜けていった。考えてみたところで死んだ人は戻らない。それくらい自分でも分かっているつもりだ。ではなぜ考えるのか。言われてみて初めて気がついたが、どうして僕はここで探偵の真似事のようなことをしているのだろう。何を知りたいというのだろう。どんな結果を望んでいるのだろう。考えても明確な答えは出なかった。

「――確かにその通りだと思いますが、すみません、自分でもよく分かりません」

「香奈の弟というだけあって、あなたも変わっているわね」

 呆れたという表情で高田さんは肩をすくめると小さく微笑んだ。何となくだが初めて僕を滝沢香奈の弟だと認め、心の距離を縮めてくれた気がした。

「ねえ、もしよかったらあの部屋で一緒に飲まない?」

 僕たちは近所のコンビニで缶ビールとつまみを買い込んだ。その帰り道、高田さんはちょうど店じまいをしかけていた花屋に立ち寄り、数分後、新聞紙に包まれた白い花を手にして出てきた。

「百合ですか」

「ええ。鉄砲百合という品種」

 どうせ処分するつもりだったからと無料にしてもらっちゃった――と高田さんは笑って答えた。

 買い物から戻った僕たちはテーブルに買ってきたものを並べ、隣り合って座った。対面には大きめのガラスのコップに活けた一輪の百合。高田さんの話によると生前、姉が好きな花だったらしい。長年一緒に暮らしていたが、個人的に植物にあまり興味がないためかまったく知らなかった。ひょっとしたら家を出てから好きになったのかもしれない。いずれにせよ素朴で純潔なイメージがいかにも姉らしいと思った。

 急拵えの花瓶の隣にビール缶を並べて置くと、僕らも自分の缶のプルタブを引き、無言のまま姉の缶に各々の缶を合わせて乾杯した。喉の奥で炭酸の泡が踊り弾ける。ビールがこんなに苦いと思ったことはこれまでなかった。

「さてと、どこから話をしましょうか」

「姉にストーカーがいたという件について教えてもらえますか」

「…………」

 高田さんは露骨に眉をひそめた。明らかに話したくなさそうな雰囲気だが、だからこそ聞いておきたかった。景気付けか高田さんはビールを一気にあおり、大きく息を吐き出した。

「その表現が適切かどうか分からないけれど、しつこい男がいたみたいよ」

「過去に付き合っていた相手ですか?」

「ストレートに聞くのね。――詳しくは知らないけど、多分そうだったと思う。わたしと会うよりも前って話だから、高校時代かそれより前ということになるかしら」

 高校以前ということは家族三人で暮らしていた時期だが、付き合っていた相手がいたとは知らなかった。そのような素振りを見た記憶がない。にわかに信じ難いが高田さんの話が本当ならかなり慎重に交際していたことになる。

 冷えた缶を両手で包み込みながら尋ねた。

「どこで知り合ったのでしょうか」

「さあ……酔ったときに一度聞いたきりだからこれ以上は知らないの。でも、何となくだけどずっと縁が切れていなかったみたい」

 ミニサイズのポテトチップスを一枚つまんで口に入れた。姉は僕と同じで人付き合いがそれほどよくなく行動的ではなかったので、自然に知り合う場所も限られる。相手は近所の知り合いか学校の同級生である可能性が高い。

 高田さんの話し振りからしてこの件に関して得られる情報はもうなさそうな気がするので、話題を変えてみることにした。

「ところで姉が結婚していたことは知っていましたか?」

 ビールを飲みかけていた高田さんはいきなり咳き込み、目を白黒させた。言い出すタイミングが悪かったと少し反省した。

「やっぱり驚きましたか」

「……驚いたってもんじゃない。それっていつの話?」

「一昨年の七月だそうです。もっとも去年の十月には離婚していたそうですが」

「その言い方、もしかしてあなたは知らなかったの?」

「ええ。どうも父も知らなかったようです」

 高田さんは大きく息を吐くと、どこか遠い目で天井を仰いだ。

「あの子の秘密主義も呆れるほど徹底しているわね。まさかとは思うけど、結婚相手はストーカーの男じゃないでしょうね」

「分かりません。僕も昨日、警察の人から聞いたばかりですので。――橋場隆一という人、知っていますか?」

「それ、元旦那の名前?」

 うなずくと高田さんは首を横に振った。やはり知らないらしい。

 高田さんは残りのビールを飲み干すと空になったスチール缶を握り潰し、テーブルの上に転がした。潰れた空き缶はカランカランと軽やかな音を立てながら壊れたシーソーのように揺れ続けた。

「……わたしたち、本当の香奈のことを知らなかったのかもね」

「そうかもしれません」

「何だか、寂しいね……」

 缶を指先で弄びながら高田さんは呟いた。

 僕はビールを一口飲んだ。

「でも、――姉はきっと高田さんを始め、みんなに愛されていたのだと思います」

「嘘! そんなのは絶対に嘘よっ!」

 急に声を荒らげたのでびっくりした。高田さんの目は僕の方を向いていたがどこか虚ろな感じだった。

「自殺したのよ、あの子! 本当にみんなに愛されていたっていうのなら、もっともっと生きて、もっと幸せな人生を送ったはずじゃない……」

「…………」

 瞳にも声にも先ほどまでの力はなかった。胸が締めつけられる。高田さんの言う通りだ。もし姉が生きていたら、生き続けたら――そんなIFに意味があるかどうか僕には分からない。だが、少なくとも自ら命を断つことより不幸なことが今の僕には思いつかなかった。

「確かに自殺を決意するまでの込み入った事情があったのかもしれません。でも、……とても安らかな顔をしていました」

「そう、それならよかった」

 机に突っ伏した高田さんはやがて静かに泣き出した。慰めの言葉を掛けようとしたができなかった。しばらくすると静かな寝息に変わったので、押し入れからタオルケットを出して背中にそっと掛け、自分は気が抜けてぬるくなったビールを少しずつ口に含みながら長い夜を過ごした。

六月十一日(土)

「香奈のことは残念だったけど、でもあなたと話せてよかった」

 姉の部屋の前での別れ際、高田さんは赤い目元で微笑んだ。昨夜のことがあったので心配していたが、思ったより元気そうで少しほっとした。改めてこの人の強さを垣間見たような気がした。

 僕たちは互いに何か分かったら連絡すると約束し、携帯電話の番号を交換し合った。

「ところで、この部屋っていつに解約されるの?」

「当分はこのままですよ」

「――え?」

 不思議そうな顔をした高田さんに、賃貸料が先の分まで支払い済みであることを説明した。

「ふふ。何だか香奈らしい」

 高田さんは目を細めて笑った。どことなく憂いを含んだ笑顔――そういえば姉はいつもこういう笑い方をする人だった。ただ単に僕が知らなかっただけで、ひょっとしたら昔から何かを悩み続けていたのかもしれない。

「そうそう、昨日は言いそびれちゃったけど実はあなたのこと、香奈から聞いて知っていたの」

 高田さんはそう前置きして悪戯っぽく笑った。

「香奈、あなたのことを随分と褒めていたわよ。少しクールに見えて本当はとても優しくて――姉と弟の関係じゃなかったら惚れていたって」

 僕はどう答えたらいいか分からず、照れ笑いをしながら無言で小さく手を振って高田さんを見送った。

 その後、自分のアパートに戻ってシャワーを浴びてから、自転車でバイト先の書店に向かった。徹夜明けだったので一日中、頭が朦朧としていたが、何とかその日の仕事を済ませて家路についた。少し仮眠を取ろうとも思ったが横になると朝まで熟睡してしまいそうだったので、コンビニで買ったサンドイッチを食べながらインターネットで橋場隆一の経営する会社の情報を集めることにした。

 予想通りその会社はオフィシャルサイトを公開していた。ウェブコンテンツのデザイン・作成を業務とし、一昨年の冬の時点で社員数七名の有限会社。経営状態は不明だが自社サイトを一年以上も放置しているという時点であまり健全ではないような気がする。

 社長である橋場隆一のプロフィールによると都内某私立大学工学部を卒業後、開発ベンダー勤務を経て地元に戻り会社を立ち上げたとある。仮に姉が高校時代から付き合い始めた相手だとすると、そのときの橋場は大学生なので遠距離恋愛だったということになる。知り合ったのが地元だとすると時間を溯る必要があり必然的に姉の年齢も下がる。中学生、小学生――あり得ない話ではないがあまりピンとこない。根拠はないがストーカーとは別人のような気がする。

 頭の中を切り替え、構築を手がけたと謳っているサイトがリストアップされていたので一通り見てみることにした。よく言えば堅実でシンプル、悪く言えば素っ気ない作りのものが多く、またHTMLとCSSをチェッカーにかけてみても文法ミスがほとんどなく、作成者の性格が窺える。続いて検索サイトを梯子しながら橋場隆一の名で軽く検索してみたが、特に有用な情報は得られなかった。だが、念入りに探せばネット上の個人的な履歴を追うことができる気がしている。推測に過ぎないが彼のウェブコンテンツの知識はプライベートで得たもので、どこかで個人サイトを立てている、もしくは立てていた気がする。専門外の分野で食べていかなければいけない現実を冷めた目で見つめる橋場隆一の姿を想像する。

 もちろん勝手な推測なので合っているという保証はまったくないが、別に間違っていても構わない。今は情報収集段階なので使える・使えないを問わずできるだけ多い方がいいと割り切っている。それでもウェブ上の情報とそれを元に頭の中で作り上げた人物像だけでは大して前に進まないのは否めない。本当に気になるのなら実際に会って話をしてみるのが一番だろう。しかし、いきなり滝沢香奈の弟だと名乗っても、まともに話を聞いてくれないに違いない。手っ取り早いのは一クライアントとして接触することだろうか。社員数がそれほど多くなさそうなので本人と話す機会もありそうだ。だが、学生の身分では実際に契約するわけにはいかないのでどこまでが無料か確かめておく必要はある。――いけそうな気がしてきた。

 無難にメールで連絡を取ってみることにし、フリーメールのアカウントを新規に取得して次のような本文を送った。

『御社に個人ホームページの作成代行をお願いしてみようかと考えています。見積もりが無料かどうかを教えてください。また地図を確認したところどうやら家の近所のようですので、できれば直接話を聞きたいと思っていますが可能でしょうか?』

 決してビジネスライクな文章ではないが学生ならこれくらいで十分だろう。差出人は本名を名乗るとあからさまな気がしたので母方の姓を借りて「青柳司」とした。初見で滝沢香奈の弟であるとは気づかないだろう。実際に契約まで話が進めば僕の嘘もばれるだろうが、それまでに断ればいい。あとは先方からの返事を待つだけだ。

 他に何か情報はないかと適当にキーワードを変えながら検索していると、卓上で充電中だった携帯電話の着メロが鳴り出した。手に取って確認すると高田さんからだった。

「こんばんは、高田です。昨日はありがとう。――今、時間よかった?」

「大丈夫ですよ」

「よかった」

 受話器から小さな笑いが漏れた。最初に会ったときはクールな人だと思ったが、それは見知らぬ僕を警戒していただけであって根はきっと明るい人なのだろう。

「ねえ、わたしが帰ってからは何をしたの?」

「バイトに行って、さっき帰ってきたところです」

「何のバイト?」

「書店の店員です」

「本屋さんの仕事ってどんなことをするの?」

 レジや検品・発注処理、子どものお守りからトイレ掃除まで何でもすると答えた。

「でも今日は頭がぼーっとして、何をやったかあまり記憶にありません」

「あはは。でも徹夜の後なのにすごいよ。わたしなんか寝たはずなのに、あれから家に帰って二度寝して起きたのが夕方よ?」

 明るく弾む声のリズムが心地よかった。そういえばこうやって電話で女性と会話をするのも久し振りのような気がする。

「ええと、実は電話をしたのは教えて欲しいことがあってね。……香奈のアパートに電化製品って何があったか、覚えている?」

 電化製品――どうしてそんなことを聞くのだろう。僕は部屋の中の様子を思い出しながら答えた。

「蛍光灯と換気扇と冷蔵庫、あとはトースターレンジくらいだったと思います」

「やっぱり……」

 急に声のトーンが落ちた。嫌な予感がしたが間を置かずに尋ねた。

「それがどうかしたのですか?」

「あのね、香奈が使っていたノートパソコンがあったはずなのよ」

 高田さんが言おうとしているのはつまり、姉の所有物だったノートPCが自殺の前後で紛失したということなのだろうか。

「自殺の前に処分したのではないですか」

「そうかもしれない。だけど前にあの部屋に行ったときには確かに……」

 高田さんは語尾を濁した。姉が処分したのではなく第三者が何らかの理由で持ち去った可能性がある、と言いたいようだ。想定しているのはストーカーの男だろうか。

 まだ高田さんには話していないが、姉の自殺が発覚したのは匿名の一一九番通報が元になっている。殺人犯とまではいかなくても自殺の原因となった関係者である可能性は決して低くなく、その人物がPCを持ち出したと考えるのは不自然ではない。伝えようかどうか迷ったが、まだ頭の中で考えがまとまっていなかったので今は触れないことにした。

「個人的な意見ですけど、もし誰かが姉の部屋から物を盗んだのなら何らかの痕跡を残しているはずで、現場検証をした警察がそれを見落とすとはあまり思えません」

「うん、そうよね。変なことを言ってごめん」

「いいえ、こちらこそ」

「でもあなたに話したら少し楽になった。ありがとう。――じゃあ、そろそろ電話を切るわね」

「おやすみなさい。いい夢を」

「ふふ。お互いにね。おやすみ」

 ベッドに寝転がり天井を眺めながら考える。確かに姉の死は事件ではないと判断された時点から捜査がストップしており、警察も知らないことがまだあるかもしれない。仮に高田さんの言う通り姉の部屋からノートPCがなくなったのが事実だとして考えられる理由は何だろう。

 姉が自殺の前に自ら処分したと考えるのが一番自然だろう。自分の過去を記録した媒体を不用意に残さないためにハードディスクの中身を消して中古屋に売ることはあり得ない話ではない。もし僕が自殺をする前に多少の心の余裕があって身辺整理をすることになったら、間違いなくPCは処分の対象になる。

 では、姉以外の人物が持ち去った可能性はどうか。警察が捜査のために押収したのかもしれない。ただ、大島さんから早い段階で自殺と断定されたと聞いており、それに仮に証拠品だったとしても最終的には本来の持ち主に返却されるはずだ。この場合の持ち主とは父になるだろう。そもそも父があの部屋を訪れた際に姉の遺品であるPCを持ち出したとしても不思議ではないが、どちらにしても先日に帰省したときにPCを見た記憶はない。

 警察でも父でもない場合もあり得る。何らかの事件に巻き込まれ、その際に失われたという可能性もないわけではない。不審な通報者の件もあるし、しかもあの部屋はしばらくの間、無人だった。何らかの方法で部屋に侵入した人物が盗み出したのかもしれない。

 やはり現段階でPCを持ち去った人間の目星をつけるのは困難だ。それよりも第三者によって持ち出されたと仮定して、それがどう処分されたかを考えた方がよほど建設的な気がする。

 ――ふと我に返る。僕は姉の過去を探ってどうするつもりなのか。姉弟とはいえ死んだ人の過去をあれこれ詮索するのはあまりいい趣味ではない。分かっているつもりだ。心の奥底では自殺ではないと思っているのか。自殺を決意した原因を知りたいのか。もしそれが対人関係だった場合に相手に復讐したいのか。単なる個人的な興味なのか。どれもしっくりこない。自分が今していること、これからしようとしていることの意味は何だろう。

『幾ら考えたって、亡くなった人が戻ってくるわけじゃない』

 昨日、高田さんが僕に言った言葉を思い出す。確かにその通りだ。だけど僕は考える。たとえどんな結果になろうとも真実を知ること、それが遺書も残さずにこの世を去った姉への弔いになると僕は信じている。

六月十二日(日)

 朝、九時過ぎに高田さんに電話をした。起きてはいたようだったが休日の朝なので早い時間に電話を掛けたことを一言謝ってから本題に入った。

「昨夜の話の続きですけど、姉のノートパソコンの機種や特徴を覚えていますか?」

「大体なら覚えているけど、――どうしたの?」

「それならお願いします。今日一日、姉のパソコン探しに付き合ってもらえませんか」

「…………」

 自分でも強引なお願いだと分かっていたので、断られて当然だと思っていた。そもそも本当にあるかどうも不明な物なので、駄目だったら聞けるだけの情報を聞いて一人で探すつもりだ。断りの理由を考えている高田さんの姿を想像しながら待っていると、思ったよりすぐに返事がきた。

「具体的なプランがあるのなら聞かせて。協力するかどうかはそれを聞いてから決める」

 いかにも高田さんらしい答えだ。僕は不審な通報者の件を黙っていたことを詫び、昨晩に考えたことを簡潔に説明した。前もって整理していたわけではないが自分でも驚くほどすらすらと言葉が出た。

「――ねえ、司君」

 高田さんは初めて僕をファーストネームで呼んだ。

「あなた、普段からそんな風に考えているの?」

 質問の意図を考えようとしたが、答えが出るより先に噴出し笑いとともに明るい笑い声が返ってきた。

「考えるのはいいけれど、わたしのことは分析しないでね」

 分析しないで――その言葉にどきりとした。高田さんは笑いながら言ったが恐らく本音だろう。自分を分析しないで欲しい、モノのように見ないで欲しい、一人の人間として見て欲しい。相手を知るということと分析するということは違う。もし自分が分析されたら決して気持ちよくない。普段から癖になっているのかもしれない。

「すみません、気をつけます」

「やだ、冗談だったのに。まるでわたしが苛めているみたいじゃない」

 高田さんは笑ったが、気を使っていることは明らかだったので心の中でもう一度、頭を下げた。

「うん、決めた。司君の案に乗ってみることにする。もし香奈の物を盗んだ犯人がいるのなら捕まえたいし。十時半に香奈の部屋の前で待ち合わせってことでいい?」

 時間ギリギリに到着すると高田さんは先に来ており、部屋のドアに背もたれて待っていた。白のワンピースにグレーの薄手のカーディガンを羽織っていた。

「レディーを待たせちゃダメじゃない」

「すみません」

「もう、冗談だから真に受けないで。別に時間通りだし」

「でも待たせたのは事実です」

「頑固なんだから。そういうところも香奈にそっくり」

 高田さんは前髪をかき上げると軽く肩をすくめて笑った。どことなく寂しげな笑顔だと思った。

「ではさっそく行きましょうか」

「すみません、少し待ってもらえますか」

 僕は鞄から家でプリントアウトしてきた紙を取り出した。高田さんが真横からひょいと顔を出して覗き込んだ。

「それ、なに?」

「この辺りの大手リサイクルショップの地図です。ネット上に公開されているものですけど」

「さすが準備万端」

「電車とバスで回るにはあらかじめ調べておかないと難しいと思ったので」

「あ、ごめん。先に言っておけばよかったわね」

 高田さんは片目をつむって手を合わせた。

「……実はわたし、車で来ているの」

 言われてみて初めて気づいたが郊外の店舗もあるので車で回った方が効率的だ。いや、公共交通機関だけではあまりに非効率過ぎるので、レンタカーを借りることくらいは想定しておくべきだったのかもしれない。高田さんに素直に感謝した。

「ちなみに司君は地図が読める方?」

「多少は」

「じゃあ、ナビをお願いね」

 そう言って歩き出した高田さんの後をついていくと、近くの無人有料駐車場にコバルトブルーのクーペがとめてあった。綺麗にワックス掛けされたボディーが曇天にも関わらずキラキラ光り輝いていて、まるで熱帯魚のようだった。そのことを伝えると高田さんは嬉しそうに笑いながらドアを開けた。

「この子、わたしも気に入っているの」

 走り出すととても丁寧なアクセル・ハンドルワークで、混んだ大通りも狭い細道もすいすいと走り抜けた。助手席で頼りないナビゲーションをしながら、こういうところも高田さんらしいと思った。

「ここもダメだったわね」

 車に戻った僕らはシートに身体を沈め、ほぼ同時にため息をついた。印刷した地図に赤ボールペンで×を付ける。

「この調子だと、今日一日でしらみ潰しってのはきついわね」

 手元の紙に目をやる。まだかなりの数が残っているが、時刻は既に十六時を回っている。高田さんが言う通りこれだけの数をすべてこなすのはとても無理だ。

「方針を決めて重点的に攻めた方がよさそうですね」

「じゃあ、もし司君が盗んだ犯人で、中古屋に売るとしたらどこにする?」

「そうですね――自分がよく使う近所の店は外します。あと現場付近も避けます」

「ノートパソコンを持ったまま電車やバスを乗り継いで?」

 くすくすと高田さんは笑った。カタログスペックを確かめたわけではないがノート型PCとはいえ四、五年前のモデルなのでそれほど軽くないはず。恐らく三キロはあるだろう。付属品があれば更に上乗せ。とても持ち歩く気にはならないし、何より目立つ。

「今回みたいに車がなければ、そもそも遠くで売ろうと思わないですね」

「それなら車があったら?」

「姉のアパートから見て滝沢家とは逆方向で、高速や国道を通らずにそこそこ遠いところでしょうか」

「大きな道路を通らないのはカメラ対策?」

「ええ」

「監視カメラは割とどこにでもあるからすべて避けて通るのは無理だと思うけど、とりあえずその線でいきましょうか」

 そう言いながら高田さんはエンジンキーを回した。

「その機種ならございます。こちらへどうぞ」

 アルバイトと思しき若い店員に案内されるままについて行く。

 これで回った店は九店舗目、同じ型のPCはようやく二台目になる。姉が持っていたという機種は古いこともあってあまり取り扱っていないようだが、見方を変えるとすぐに売れてしまう可能性も低いということになる。探せばきっと見つかると僕たちは信じていた。

 誘導してくれた店員に礼を言って確認作業を始めた。もっともすべて高田さん任せなので僕はその隣で見ているだけで、慣れた手つきで蓋を開け閉めしたり裏側を覗き込んだりしているところを眺めながら、前回より念入りにチェックしているなとぼんやり思っていると、突然、高田さんは振り向いてぎゅっと僕の腕を取った。

「これ、香奈のパソコンよ! ここの角の傷痕、間違いない!」

 高田さんは僕の腕に抱きつき興奮気味に言いながら顔を上げた。急に腕を組まれた恥ずかしさにどうしたらいいか分からず戸惑う僕と目が合う。高田さんもようやく自分の行動に気づいたのか、ぱっと腕を離して顔を逸らした。

「ご、ごめんなさい」

 視線をキョロキョロさせながら慌てて言った。一方の僕も何でもない素振りに努めたが、なかなか心臓の鼓動が元に戻らなかった。柔らかな感触がまだ自分の腕に残っていた。

「えっと、――中のデータ、消されちゃっているわよね?」

「恐らく」

 商品として展示されているということは、マニュアルに従ってフォーマットもしくはリカバリー済みということだ。小規模店舗での処置ならいざ知らず、ここは大型チェーン店。小手先でデータを復活させることができるとは思えない。

「じゃあ、中に紙のメモとかが隠されている可能性は?」

「そちらもほとんどゼロでしょうね」

 普通の人が考えつくようなバッテリーやメモリの格納場所ならチェック済みで、不審な物があればその場で除去されているはずだろう。

「せっかく見つけたのに。買い戻しても無駄なのかな……」

 がっかりした表情で高田さんは僕を上目遣いで見た。高田さんにはあえて言っていなかったが、データが消去されていることは最初から想定内だった。そもそも今回は姉のPCを取り戻し、中に残されている記録を確認することが目的ではない。

「とりあえず店員に話を聞きましょうか」

 先ほど僕らを案内した店員が離れたところで商品整理をしていたので近づいて話し掛けた。

「先ほどの商品ですが、いつ入ったのか、教えてもらうことは可能ですか?」

「……少々、お待ちください」

 自分では判断できなかったらしく、慌てた様子でカウンターに向かった。隅で何かの作業をしていたやや年上の店員と話しているのが見える。相手の店員は話を聞きながら難しそうな顔をしていた。

「教えてくれるかしら」

「五分五分でしょう」

 他の商品を眺めて待っているとやがて先の店員が足早に戻って来て、カウンターまで来て欲しいと言った。二人でついて行く。僕たちの対応は二人目の店員にバトンタッチされた。三十代前半と思しき落ち着いた雰囲気の人で、もしかしたら若いが店長クラスの人間なのかもしれない。

「お待たせ致しました。先ほどご覧になった商品につきまして、前の所有者様が手放された年月日を確認されたいということでよろしかったですか?」

「そうです」

「畏まりました」

 店員は手元の帳簿に視線を落とした。

「持ち込みがありましたのは六月四日――先週の土曜ですね」

 僕と高田さんは互いに顔を見合った。姉が自殺したのは六月三日、PCの持ち込みがあったのはその翌日だ。この店に売りに来たのは明らかに姉ではない別の人間だということになる。そこまで分かったので駄目元で申し出てみることにした。

「実はあのパソコンですが、特徴からして僕の姉のものにほぼ間違いないのです」

 店員は目をしばたいて僕、そして隣の高田さんを見た。

 僕は言葉を続けた。

「私事で恐縮ですが、先日、姉が亡くなった前後にパソコンが紛失しました。それで、できればあれを売った人に関する情報を僕たちに教えて欲しいのですが、可能ですか?」

「…………」

 この要望は通らない。通らなくても仕方ない。店員は腰に両手を当てて帳面に視線を落とし、うーんとしばらく唸ってから顔を戻した。

「つまり、亡くなられたお姉様の所有物が無断で処分された可能性があるので、持ち込んだ方の名前を確認されたい――そういうことですか?」

「率直に言うとそうなります」

「警察に被害届を出されましたか?」

 嘘を言っても仕方ないので無言で首を横に振った。初めから分かっていたがそこが一番のネックだった。どう頼もうかと悩んでいると店員はにっこりと笑った。

「ではこう致しましょう。とりあえず来週の日曜までは、あの品は売り物として並べずに私どもで預かっておきます。それまでにまずは警察の方に相談されてはいかがですか。今、ここでお答えできないことも犯罪捜査ということでしたら協力することも可能かと思いますので」

「しかしご迷惑では――」

「ご心配には及びません」

 店員は笑顔で否定した。

「このようなケースはときどきありますし、それに失礼ですがすぐに値崩れするようなモデルでもありませんので、一週間や二週間は何ら問題ありません」

 ご連絡をお待ちしておりますと店員は頭を下げた。

 わざわざ時間を置く理由もなく、またせっかくの店員の好意を無駄にしたくなかったので、車に戻るとさっそく大島さんに電話を掛け、事情を手短に説明した。会話の中で姉が亡くなった夜、救急隊員が姉のアパートの部屋に入ったときには、既にPCはなかったことも分かった。

『――大体の話は分かった。それじゃあ、今から捜査員をそっちに向かわせるから、うん、そうだな、一時間くらいで着くと思うから協力してやってくれないか』

「分かりました。あの、ひとつお願いがあるのですが」

『何だい?』

「後でノートパソコンを買い戻したいのですが、いいですか?」

 受話器の向こうで大島さんは笑った。

『それなら一向に構わんよ。これでお姉さんの形見が晴れて君の元に戻るというわけだ』

 どこか無責任で嫌味な響きの発言に聞こえてカチンときたが、赤の他人、しかも協力してもらうべき警察を相手に怒っても得なことはないので、平静を装ったままそつなく挨拶をして電話を切った。小さく息を吐く。隣を見ると高田さんと目が合った。真剣だがどこか暖かなまなざしだった。

「何か分かるといいね」

「……そうですね」

 交わした言葉はそれだけだったが、尖った心が元に戻って行くのが自分でも分かった。大島さんとの会話の断片や僕の表情から何かを察して心配してくれたのではないか、そんな気がする。この人は姉の味方で、僕が姉の味方でいる限り僕の味方にもなってくれると思っている。今は頼りっぱなしだが、だからこそいつか高田さんに困ったことがあったら手助けしてあげたいと思う。

 ――「恋人」の二文字が脳裏を過る。どうだろう。確かに高田さんは好意的に接してくれるが、恋愛対象として見てくれているかどうかは別だ。三つも年が離れているので頼りない弟という程度の感覚かもしれない。既に相手がいる可能性だってある。僕のことをどう見ているのか分からない。高田さんの気持ちもそうだが自分の気持ちも分からない。僕は本気で高田さんのことが好きで付き合いたいと思っているのか。正直なところまだよく分からない。

「大丈夫。心配しないで」

 高田さんは微笑んだ。僕が考えていたことを口にしても笑ってくれるのだろうかとふと思ったが、自分の気持ちが整理できていない段階で問題を押し付けて困らせたくない――いや、こんなことを言えるわけがない。

「……さっきの電話ですけど、警察の人が一時間くらいしたらここに来るので協力して欲しいと頼まれました」

「それならその前に軽くお茶でも飲まない?」

「ええ」

 走り出した車の外に目を向け、次第に遠ざかるリサイクルショップを眺める。姉のPCは意外にあっさりと見つかったが、そこから失われた経緯を追うことができるかどうか、仮にそれが分かったとしてどんな結論をもたらすのか、今の僕には想像できなかった。

六月十三日(月)

 講義中、何気なく窓の外を見やった。薄鼠色の雨雲に覆われた空から細雨が降っており、校舎やグラウンド・街路樹の輪郭が霞んで見える。そういえば朝、出掛けに見たテレビで今日から梅雨に入ったと言っていたのを思い出す。

 正直、雨は嫌いだ。濡れると気持ちが悪いという単純な理由もあるが、それ以上に気圧が上下すると偏頭痛がして息苦しくなり体調が悪くなる。だから僕は鳥にも魚にもなれないが、別になりたいとも思わない。地上に足の付いた人間として生まれたことに感謝している。それでもしばしば山や海に行くのはどうしてなのだろう。論理的に説明が付かない。難しいことを言わずに好きだからの一言で済むかもしれないが、本当に好きなのかすら怪しい。もしかしたらマゾヒスティックな面を持ち合わせているのかもしれないが、その線もあまりすっきりとしない。ときどき自分自身のことが分からない。

 分からないで思い出した。休憩中に携帯電話からメールをチェックすると、橋場隆一の会社「RBソリューション」からの返信が届いていた。概算見積もりまでは無料ですのでいつでもご自由にご来社ください――という内容だった。トリガーとなったメールを出したのは他ならぬ僕だが、よく思い切った行動に出たものだと自分でも驚く。実は何も考えていないのではないか。後から考えるとあまりに慎重さに欠けている気がする。そうは言ってもせっかくのチャンスなのでバイトのない明日にでも行ってみようと、実際に会ったときに何を話そうかと、頭の中でときどきシミュレーションをしながらその日の講義を受けた。

 月曜日の書店は休み明けのためかいつも客が少ないため、他の曜日にはできない作業をすることができる。今日はレジ処理の合間にコミックのパッケージングをすることにした。ビニール袋に本を入れ、厚紙のヘラを使って余分な部分を真ん中あたりのページに折り込み、その箇所と口をセロハンテープで留める。この繰り返し。こういう単調な作業は嫌いではない。手が一連の動きを覚えているので頭で考える必要がない。手を動かしながら他の考え事をすることもできるし、頭の中を空っぽにすることもできる。今はどちらかというと後者の状態だ。レジをしたり店内を見やったりながら黙々と作業を続けた。

 ふと手を休めて背後にある監視カメラの映像に視線を向けると、少年誌コミックのコーナーで不審な動きをしている人物がいるのに気づいた。小学高学年くらいの少年で、辺りを見回しながら鞄を開けようとしている。また、だ。

 ハタキを手にすぐに向かったが、現場に到着する前にその少年はいなくなっていた。案の定、置いたばかりの新刊コミックが一冊なくなっている。他にもやられたかもしれない。探せばまだ近くにいるかもしれないが、犯行現場を押さえないことにはどうしようもない。ため息をつくとレジに戻り、パッケージング作業を再開した。

 ここ最近、窃盗犯が増えてきていて困ると店長がよくこぼす。絶対に万引きとは言わない。窃盗。利益の二十パーセント余りを奪う犯罪者たち。雇用される側の僕もまったく無関係とは言えないが、雇用主である店長はより深刻だ。先日、見兼ねて店内に監視カメラを設置したばかりだが、その出費もばかにならないだろう。聞くところによるとシフトを見直してもう一人増やすことも検討しているらしいが、それほど客数が多いわけでもないこの店で人件費をこれ以上増やすのは難しいと思う。

 万引き、いや、窃盗をする人々に犯罪の意識はあるのだろうか。犯罪と知りながら日々の生活に困って盗むケースはごくまれだろう。皆無と言っても過言ではない気がする。何とも思っていないか、スリルを味わうためにやっている人がほとんどに違いない。さっきの小学生も恐らく五百円にも満たない本を盗むことくらい何でもないと思っているのだろう。

 ――姉のPCを盗んだ相手の目的は何だろうか。常識的に考えてそこにあると困るから、記録されている内容が他人の目に触れると困るから、もしくは困る可能性があるから盗んだのだろうと思われる。そうでなければ古いタイプの重いPCをわざわざ持ち出すようなことはしないはずだ。しかし一体、どのタイミングで盗んだのだろう。

 仮に件の通報者がPCの窃盗犯だとして、手首から多量の血を流して倒れている姉を見つけ、ノートPCを持ち出して鍵を掛けて消防に通報する――まだ姉の息があるうちに、しかも現場に自分がいたという証拠を一切残さずに――本当にそんなことができるのだろうか。死に瀕している人間を目の前にしてそこまで落ち着いて行動できるものだろうか。よほど沈着冷静でなければ難しい気がする。もしかして自殺ではなく計画的に殺されたのではないか。いや、単純に自殺よりも前にノートPCが盗まれた可能性も十分にあり得る。

 状況を推測するにもあまりに情報が少ない。調べるのは警察の仕事だと分かってはいるが、自分自身でも納得のいく情報が欲しいと思う。

 バイトから帰ると高田さんに電話を掛けた。

「明日、RBソリューションに行って来ます」

「それって何だっけ?」

「橋場隆一の経営する会社です」

「ああ、橋場さんって確か香奈の旦那だった人よね」

「ええ」

 高田さんはこちら側にも聞こえるくらい大きなため息をついた。

「司君って度胸があるのね」

「滝沢香奈の弟としてではなくユーザの振りをしてですよ」

 自分の計画を簡単に説明し、でも本人に会えるかどうかは分からないと付け加えた。

「……やっぱり勇気あると思う。わたしだったらそんなの絶対に無理」

「勇気があるかどうかは分かりませんが、ときどき自分でも無謀だと思います」

「ふふ、変なの。まあ、司君のことだから大丈夫だと思うけど――」

 高田さんは急に真面目な口調で言った。

「気をつけてね」

「分かっています」

「明日にまた結果を教えて」

 おやすみの挨拶をして電話を終えた。携帯電話を折り畳んでズボンのポケットにしまいながら、何を気をつければいいのだろうとふと思った。

六月十四日(火)

 大学の講義が終わるとすぐに地下鉄に乗り、オフィス街の中心から二つ離れた駅で降りた。出口を出たところで周囲を見渡す。小雨の中、古びた雑居ビルや飲食店・パチンコ店などが無秩序に立ち並び、何とも言えない生活臭が辺りに立ち込めている。自分の生まれ育った環境と似ているためかこういう雰囲気は別に嫌いではないが、お世辞にもITビジネスをするような場所ではない気がする。

 この街でプリントアウトした地図を片手に傘を差しながら目的地を探すのは思ったより困難だった。そもそも現地にたどり着くための唯一の手掛かりである地図が古く、目印として指定されているビルが既に存在していなかった。こんなことならメールに添付されていた地図だけではなく別に用意をしてこればよかったと後悔した。携帯電話から検索してみたが埒が明かない。それでもそのうちに見つかるだろうと人に尋ねながら歩き回り、結局、一時間ほど迷った末にようやく目的のビルに到着した。

 用がなければ間違いなく立ち寄ることのない寂れた雑居ビル、その3FがRBソリューションのオフィスだった。訪れる人が少ないのだろう、綿埃の積もった階段を上りドアの前に立つと社名を印刷した張り紙が剥がれかけており、しかも日に焼けて茶色く褪せていた。資金繰りに困り夜逃げしてしまったテナントを想像してしまうが、息を潜めてそっと中の様子をうかがうと確かに人のいる気配がする。ドアを開けるのに躊躇したが、ここまで来て手ぶらで引き返すわけにもいかないので思い切ってノックした。

 軽く三度。反応がないので強めに二度。ようやく訪問者に気づいたのかギイギイときしみ音がし、頭が禿げ上がった四、五十代の男性が顔を出した。

「……あんた、誰?」

 アルコールとニコチンが混ざったような口臭が鼻に来て思わずむせそうになった。しかも初対面のはずなのに敵意に満ちた目をしている。場違いなところに迷い込んでしまったような錯覚がしたが、改めて張り紙を見るとここで間違いなかった。それでも念のために尋ねてみた。

「あの、ここは『RBソリューション』ですか?」

「何の用だ」

「先日、連絡をした者です」

 続けて説明をしようとしたところ相手はやおら僕に背を向け、部屋の中に入ってしまった。直後にバタンとドアが閉まる。呆気に取られていると中から声が聞こえてきた。誰かと会話をしているようだ。

『誰かアポあるか?』

『お客さん? 名前は?』

『知らん』

『困るなあ。ちゃんと聞いてよ』

『ふん、名乗らなかった奴が悪い』

 僕の存在など最初からなかったかのようにやり取りをしている。しかもその内容がこちら側に筒抜けだ。素人目からしてもさすがにまずいだろうと思ったが、素知らぬ顔で辛抱強く待つことにした。しばらくすると再び扉が開いて男性が顔を出し、僕を睨みながら不機嫌そうな顔で尋ねた。

「あんた、名前は?」

「青柳といいます」

『ああ、青柳さん? クライアントさんだから入ってもらって』

 ようやく許可が下りたようだ。心の中で肩をすくめ、失礼しますと一言断ってから事務所の中に入った。

 そのテナントは十メートル四方ほどのフロアで、無造作に山積みされた書類とPCディスプレイが乗った事務机が部屋の中央に六つ固まって並んでいる。従業員は三名おり、戸口で立ったまま僕を睨んでいるのは先ほど応対してくれた男性、真剣に事務処理をしている四十代くらいの女性、そしてディスプレイに向かう三十代と思しき痩せ細った男性――入室を許可してくれたのは恐らくこの人だろう。残念ながら橋場隆一はオフィスにいないようだ。

「こっちへ来て、空いている席に適当に座って」

 痩せた男性に促されるままに歩み寄ってPCチェアに腰掛けた。部屋の調度品の中で椅子だけが妙に高級感溢れている。応接スペースが見当たらないので、この会社を訪れる客はきっとソファー代わりに座らされているのだろう。まだ会社が健全な時期に買ったものだろうかと想像する。

「青柳さんは学生だっけ?」

 僕は無言で頷いた。

「ほら、最近はブログが流行り始めたおかげで個人からの依頼はなかなかなくてね。ええと、どんなホームページを希望?」

「デジカメで撮った写真と日記をメインにしようかと考えています」

 前もって考えておいた台詞を答えた。自分では分からないが棒読みだったかもしれない。

「日記っていうのはブログ?」

「よく分かりません」

「先に言っておくけど、うちはブログやBBSなんかの構築支援はやっていないから必要だったら他を当たって。まあ、検索してみればどれだけでも方法が見つかると思うけどね」

 男性は何がおかしいのか一人で笑った。正直、客に対する営業というスタンスからはあまりに程遠い。かといって失礼かもしれないが使っている言葉の端々からそれほど技術力も無さそうな気がした。

「サンプルを見てみるかい?」

 返事をする前に相手は椅子に座ったままくるりと背を向け、自分のデスクトップPCに向かった。見たければこっちへ来いということだろう。最初に応対した人もそうだがこの人もかなりマイペースだ。社風なのかもしれない。立ち上がると聞こえないように小さくため息をついて彼の横に行った。

 液晶モニタを覗き見るとサンプルページを表示したブラウザが開いていたが、別のウィンドウでRPGの攻略サイトを見ていたことが丸分かりだった。マウスを渡されたので適当にリンクをクリックしてみる。プロフィールとサムネイル表示の写真、ダミー表示の掲示板。大して内容がないのに画像ファイルをふんだんに使っており、ページ間の移動も面倒であまり閲覧者に優しくない作りだった。

「考えていたのはこんな感じ?」

「まあそうですね」

 モニタのブラウザ画面を見つめたまま答えた。相手の目を見て答えられる自信がなかった。

「ちなみにこれで料金はどれくらいですか」

「待って。――料金プランはこれを参考にしてもらえる?」

 書類の山の一角から取り出した、透明なプラスティックケースに入った価格表を受け取った。想像していた通り一番安いプランにしてみても事前にウェブで調べた現在の相場よりかなり高めだった。少なくとも一学生が気軽に払えるものではない。創立当初から値下げしていないのではないか。技術的にも価格的にもかなり遅れており、これでは客が寄り付かなくても仕方ない気がする。

「どう?」

「思っていたより高いですね」

 正直に感想を述べる。この件に関しては嘘を付いても仕方ない。

「うーん、やっぱり学生さんには無理かい?」

「考えさせてもらえますか」

 変に気を持たせたくないので断るつもりであることを言葉に匂わせた。質問があるかと尋ねられたが、あえて聞くような内容がすぐに思い浮かばなかった。

「そうか。じゃあ、また連絡をもらえるかな」

「分かりました」

 椅子から立ち上がった。本来の目的は橋場隆一に会うことだったが今日は諦めよう。これ以上、ここにいる理由がない。むしろすぐにでも外に出たかったが、一応、ナップザックを肩に掛けたところで聞いてみた。

「こちらの会社の社員はこれで全員ですか?」

「いや、社長が外に出ているよ。――ふん、まったくどこで遊んでいるんだか」

 男性は憤慨に堪えないという様子で腕を組んだ。つまり現在の社員は全員で四名ということだ。確かに社員がこのような調子なので社長の橋場隆一もどこで何をしているか分かったものではない。だが、通夜で見た雰囲気からすると遊び人という感じはせず、どちらかというと真面目で神経質なイメージだった。遊んでいるのではなく現実から逃げているのかもしれない。ある程度の責任感はありそうな気がしたのだが、思い違いだったのだろうか。

「それでは、失礼します」

 既にPCに向かっていた痩せた男性は無言で片手を上げて答えた。女性社員は相変わらず自分の仕事をしており、こちらには無関心だった。受付の男性はいつの間にかフロアから姿を消していた。ありがとうございましたの声も見送りもなく僕は事務所を後にした。

 ビルから出るとほっとした気分で空を見上げたが、灰色の空からは相変わらず雨が降り続いていた。そういえばお茶が出なかったどころか、相手の名前すら聞かなかったことに後から気づいた。

「すごい雨よね。おかげで会社帰りにびしょ濡れになっちゃった」

 夜に高田さんから電話が掛かってきた。話すのはいつものように姉について調べたことやお互いにその日にあったこと。最初は協力者への報告という感覚だったが、日常の一部になりつつあるこのやり取りをいつしか楽しんでいる自分に気づいていた。いや、たぶん正しくない。僕は高田さんとこうして会話することを始めから望んでいたような気がする。

「ところで香奈の旦那さんだった人の会社、どんな感じだった?」

「あれなら僕でも会社経営ができそうです」

 手短に今日あったことを説明すると、電話の向こうで高田さんは大笑いした。なぜ笑われたのか分からなかった。

「そんなにおかしいですか?」

「あはは。だって、相手のすごく迷惑そうな顔が目に浮かぶんだもん」

「迷惑だったのはこっちですよ」

「でも冷やかし半分だったのでしょう?」

 高田さんは僕の話を楽しそうに聞いてくれる。僕も高田さんとの会話を楽しんでいる。弱腰かもしれないがこれくらいの関係でいいと思う。次のステップに進むかどうか、進めるかどうかは様子を見ながら考えればいい。焦って関係を壊してしまうくらいなら臆病と言われても構わない。それが今の僕の正直な気持ちだ。

「それでどうするつもり?」

「どうするも何も断るつもりですよ。そもそも仮にデザインがよかったとしても、お金を払ってまでサイトを構築してもらう気はありません」

「せっかくだからやってもらえばいいのに」

「あの料金であの内容なら自分でやりますよ。高田さんが全額を資金援助してくれると言うのなら試してみても構いませんが」

「トイチで貸してあげようか?」

 高田さんはくすくすと笑った。

 僕は咳払いをした。

「メールで断ってもいいのですが、やっぱり直接出向いて言った方がいいのでしょうね。向こうも商売なのでこのままだと迷惑が掛かりますし」

「ねえ、もしその会社にまた行くのなら、わたしもついていっていい?」

「高田さんがです?」

「うん。えっと……橋場さんだっけ? どんな人なのか見てみたいの。ダメ?」

「別に構わないですけど、会えるかどうか分かりませんよ」

「じゃあ決まりね」

 断ってもついて来るつもりだったかもしれない。初対面から何となく気づいていたが、高田さんは自分から積極的に行動する人だ。少々、強引と思えることもあるがそこもまた魅力のひとつだと思う。明日の大学が終わった後、午後四時半くらいに行くつもりなので時間が合うかどうか尋ねた。

「フレックスを使って早退しようかな」

「大丈夫ですか」

「うん、安心して。わたし一人がいなくても余裕でOKよ」

 高田さんは嬉しそうな声で答えた。何がOKなのか分からなかったが、その言い方がおかしくて思わず笑った。

「ん? どこか変だった?」

「高田さんの言い方がおかしくて」

「失礼ね」

 そう言う高田さんの声も笑っていた。心の底から笑ったのは随分と久し振りな気がした。

 電話を切った後、もう一度、自分が押さえている情報を整理することにした。机に向かい、ルーズリーフに関係者の名前と分かったこと、その情報源を箇条書きにしてみる。更に覚えている範囲で情報を得た時間を記入してみる。

 ノートを眺めながら紅茶を飲む。こうして整理してみると分かっていることが思ったより少ないことに気づく。とりあえず特に矛盾らしきものは認められないが、この中に誤った情報が混じっているという可能性もないわけではない。勘違いではなく故意の嘘ならば、僕を騙すための動機があるということになるが、今のところそれを証明するような情報はないような気がする。

 あまり頭が働いていないという理由もあるが、どうもすっきりしない。何かが引っ掛かっている。それが何か自分でも分からない。分からないことが何だか分からないもどかしさ。無駄だと分かってはいるがいっそ誰かに尋ねてみたい気分だ。――尋ねる?

 そうか、引っ掛かっていたものがひとつ分かった。この前に大島さんと電話をしたときに、姉の自殺現場には包丁以外は落ちておらず、特にこれといった所持品もなかったと聞いた。だが、姉は携帯電話を持っていたはずだ。単に所持品としてカウントされなかったか、それとも本当になかったのか。死後の家賃まで気にするくらいだから前もって解約していてもおかしくはない。しかしものは試しとメモリに登録されている番号にダイヤルしてみた。

『お掛けになった番号は電波が届かないか電源が入っておりません』

 予想に反してまだ電話番号自体は生きていた。

 そういえば高田さんは、姉の自殺の前日に携帯メールを受け取った直後に音信不通になったと言っていた。きっと最後の連絡をした後に未練が残らないように電源を切ったのだろう。そして、――その後にPCと一緒に第三者によって持ち出された可能性がある。もしそうだと仮定すると携帯電話はどう処分されたのだろう。自分が犯人だった場合を想像してみたが、手元に置いておくか壊してどこかに捨てるくらいしか思い浮かばなかった。

 いや、本当に誰かが持ち出したのだろうか。もう一度、ノートを見返す。高田さんが姉と連絡が取れなくなったのも、大家に家賃を支払ったのも自殺前日。自殺を実行するまでに時間の余裕が一日ある。比較的親しいと思われる人に自殺をほのめかしておいて実行までに間を空けているのはどうしてか。しかも二人ともあの部屋の鍵を開けることができる人たちだ。最後の最後でためらい、本当は誰かが止めてくれるのを望んでいたというのだろうか。いや、僕の知っている姉ならば、やると決めたら何が何でも実行する性格なので、むしろ自分の計画が拒まれることを嫌ったのではないか。そうだとすると最後の日はあの部屋にほとんどいなかったと思われる。その際に携帯電話を身に着けていたか、電源を切って部屋に置いていたか。前者の場合、移動先で落とす、もしくは捨てた可能性だってある。

 ――あれこれ考えても上手く考えがまとまらなかったが、きっと携帯電話の通話履歴は警察もチェックしており、携帯電話が存在することで困る人物ならば既にリストアップされているだろうということで、それ以上深くは考えないことにした。

六月十五日(水)

 今日も朝から雨だった。間断なく降り続く細やかな雨滴。梅雨の時季に入ったことを改めて実感する。生き物たちにとっては恵みの雨かもしれないが、ほとんどの人間は迷惑に感じているに違いない。真夏の前に必ずやって来る憂鬱な冷たい雨の季節。個人的には頭痛に悩まされる日々がしばらく続くかと思うと気分が冴えない。かといって空梅雨は空梅雨で困るので必要な場所では降って欲しいと思うが、そんな都合のいい注文は温度や気圧、湿度といった物理的現象に通じるわけがない。

 大学の講義が終わるとそのまま姉のアパートへと向かった。一応、待ち合わせ場所として他にも考えてはみたが二人が共通して知っている場所であり、また高田さんも異論を言わないのでいつも自然とここになる。

 しとしとと降る雨音を耳にしながら冷たい壁に背もたれて本を読んでいると、やがて濡れた傘を手に高田さんが現れた。初めて見る紺のスーツ姿がいつもより大人びて見えた。

「こんにちは」

「ごめん、待たせちゃったね」

「いえ、少し前に来たところですよ。それよりも仕事は大丈夫でしたか?」

「へーきへーき」

 僕の視線に気づいたのか、高田さんは腰に片手を当てて胸を張りポーズを取った。

「どう、OLみたいでしょう」

「OLではないのですか?」

「細かいことは気にしない。じゃあさっそく行きますか」

 不思議な人だ。初対面で僕のことを変わっていると言い、それ自体は恐らく本当のことなのであえて否定するつもりはないが、高田さんもよほど変わっていると思う。子どもっぽいところがあるかと思えば大人らしい面も持ち合わせている。それまで知らなかった一面を知ることができて嬉しく思っている自分に気づいていた。

 僕らはそのまま地下鉄でRBソリューションへと向かった。二回目の訪問でしかも昨日の今日なのでさすがに道順も覚えており、姉のアパートを出てから三十分ほどで到着した。

「へえ、こんなところなんだ……」

 隣で高田さんがビルを見上げている。

「想像していたものと違いますか」

「うーん、どうだろう?」

 歯切れの悪い相槌。きっと僕が最初に感じたものと同じような印象に違いないと思う。階段を上ってテナントの前まで移動し、アルミ製の扉に強めにノックをした。程なく中から現れたのは前と同じ男性だったが、僕たちを見るなり、いきなり顔を強張らせ声を荒らげた。

「帰れ! 社長は貴様らとは会わないッ!」

 男性はそれだけ言い捨てると叩きつけるようにドアを閉めた。派手な音が辺りに響く。突然の対応に呆気に取られた。何が起きたのか、とっさに分からなかった。もう一度ノックをしてみたが、それきり扉が開くことはなかった。――これは一体どういうことだ?

「ばれちゃったみたいね」

「…………」

 高田さんが僕の袖を引いた。

「――ねえ、司君?」

「行きましょうか」

 階段に向かって歩き出した僕の後を、ワンテンポ遅れて高田さんが慌てて追い掛けてきた。

 気分転換がてらにどこかで休憩しようという話になり、駅前の喫茶店でカフェラテを飲みながら僕らは雑談をした。映画の話、音楽の話、僕の大学生活の話、高田さんの学生時代の話――高田さんは姉の話題には触れなかったし、僕も別の話題を探そうとしていた。よくよく考えると僕らは姉を中心に挟んで形成された不安定な関係だ。しかもその姉は死去している。死んだ姉の弟と友達という関係ではなく、別のラインで関係を構築したいと思っているのは僕だけだろうか。高田さんもそう思っているはずだと考えるのは、単なる妄想で独りよがりな思い込みだろうか。自意識過剰だろうか。

 ふと話が途切れた。所在無く店内を見回す。

「ねえ、変なことを聞いてもいい?」

 顔を向けると高田さんは僕をじっと見ていた。

「何ですか」

「あのね」

 一瞬、高田さんは目を逸らし、すぐに戻した。

「……香奈のノウコツって再来月よね?」

 頭の中で「ノウコツ」という発音を「納骨」に変換し、「再来月」がいわゆる「四十九日」を指すということを理解するまでやや時間が掛かった。

「いえ、僕は立ち会いませんでしたが、遺骨は火葬後すぐに墓に納めたそうです」

「え、そうなの?」

 高田さんは少し意外そうな顔をして首を傾げた。

「ひょっとして司君の家って、仏教じゃない?」

「ええ。神道なので特殊かもしれません」

「お墓はここから近いのかしら」

「実家の近くなので――そうですね、電車とバスで一時間半くらいですよ」

 高田さんは雨でにじむ外の景色に目線を移し、ストローを回した。チョコレート色の液体の中で角が丸くなった氷が軽やかな音を立てて回る。

「もしよければ、今から香奈のお墓に連れて行ってくれないかな」

 電車とバスを乗り継いで現地に移動する間、二人ともほとんどしゃべらずに外を眺めていた。細雨に煙る外の風景が次第に自分の知っているものに変わりゆくにつれ緊張していくのを感じていたが、どうしてなのか自分でもよく分からなかった。

 バス停を降りるときには雨は止んでいたが、代わりに辺りは薄霧に包まれていた。そこから徒歩数分で墓地に到着した。そういえばここに来たのは久し振りだ。記憶をたどると去年の春に大学の合格を母に報告しに来たのが最後で、言い訳かもしれないがそれから一人暮らしを始め、実家に帰ることがあまりなかったので訪れる機会がなかった。

 濡れた石畳を高田さんと並んで歩く。

 やがて墓地の一角にある滝沢家の墓石の前まで来た。この冷たい花崗岩の下で僕の先祖たちが永遠の眠りについているのだと思うと不思議な感じがする。その中にはもちろん母や姉も含まれていて、いつの日か僕も入ることになると思うが、それが何十年も先なのか今日明日の話なのか見当もつかない。

 恐らく姉の骨が納められたときのものだろう、しおれた白い菊の花がだらりと首を折っていた。高田さんはそれを取り除き、代わりに道中で買った鉄砲百合の花束を墓前に供えた。甘く優しい香りが霧と混じり辺りに漂う。急だったので他に何も用意してこなかったがこれだけで十分な気がした。

 二人で一緒に手を合わせ、目を閉じる。

 突然、近くの樹木から鳥が飛び立つ羽音がした。それを機に周囲の音という音が消散し、同時につい先ほどまで頭の中にあった雑念が消え、無心の境地に入っていた。

 ただ時間だけが過ぎる。

 静かに静かに時が、流れる――。

「……ありがとう」

 どれくらいの時間が経った後だろうか、高田さんの声で我に返った。墓の中で眠る姉に向かって言ったのか、僕への言葉なのか分からなかった。横顔を盗み見すると神妙な表情で真っ直ぐ前を見ていた。掛けるべき言葉が出てこなかった。

 だから、代わりに手を握った。

 小さく冷たく、だけど柔らかい手のひら。高田さんも僕の手をぎゅっと握り返してくれた。手をつないだまま二人で墓石を見続ける。高田さんが何を考えているかは分からない。分からないが、僕のすぐ隣でこうして時間を共有している、今はそれだけでいいと思った。

 二人で食事をしてからアパートに戻り、ソファーでぼんやりとテレビのニュースを見ていると高田さんから電話が掛かってきた。

「あのね、香奈のことでひとつ思い出したことがあって――」

 そう前置きしてから高田さんは続けた。

「自殺する少し前なんだけど、あの子、確かお祖母さんに会いに行くって言っていた」

「祖母ですか」

 実家の祖母は既に他界しており、しかも姉が生まれる前のことなので顔すら知らないはずだ。母方――青柳の祖母のことに違いないが、いまいちぴんと来なかった。

「どういう話の流れで、その話が出たのですか」

「え? ええと、どうだったかしら……」

 うーんとうなったまま高田さんからの返答はなかった。青柳の家に行くことはそれほどおかしくないが、姉がそれを高田さんに話したという流れがどうにも想像できなかった。とりあえず思い出してもらえるかもしれないという期待も含めて、別の質問をしてみることにした。

「いつ頃のことか分かりますか」

「うろ覚えだけど、ゴールデンウィーク明けだから先月の中頃くらいだったと思う」

「理由は言っていましたか?」

「ううん、聞いていない」

 何のために祖母に会いに行こうとしたのか。それが自殺に関係するかどうかは分からないが、少なくともそのときの姉がどういう様子だったかは知ることができるはずだ。いや、何か新しい事実に出会える予感がする。

「明日、祖母に会ってみます」

「わたしも行く」

 平日に二日も続けて迷惑を掛けるわけにはいかないし、そもそもこれは滝沢家の問題だから一人で行くつもり――そう断ろうと思ったが、先に高田さんに念を押された。

「いいでしょう?」

「……ありがとうございます」

 考える前に自然に感謝の言葉が口をついた。

 断るつもりだったのも確かだが、来てくれると言ってくれたことが嬉しかったのも事実だ。人の過去を調べること自体、正直、気が滅入る。それが死んだ肉親ならなおさらだ。高田さんが隣にいてくれるだけで気が安らぐ。単なる甘えかもしれないが一緒にいてくれると助かるし、何より嬉しかった。

六月十六日(木)

 大学の講義が終わった後、いつものように姉の部屋の前で高田さんを待った。とても静かだ。瞼を閉じて耳を澄ましても雨の音しかしない。だが、よく聴くと音色や音程、リズムが必ずしも単調でないことが分かる。屋根に当たる雨音。アスファルトに当たる雨音。木々の枝葉に当たる雨音。異なる雨滴のアンサンブル。雨は嫌いだが、たまにはこうして耳を傾けるのも悪くない気がする。

 しばらくすると慌ただしく階段を駆け上がって来る足音と共に高田さんが現れた。

「……司君、これを見て」

 あいさつもないまま、息急き切って差し出された薄緑色の封筒を両手で受け取った。宛先は滝沢香奈、差出人は市内のとある会社の総務部となっている。僕は顔を上げて高田さんを見た。

「この差出人、姉が勤めていた会社ですか?」

「うん」

 再び封筒に視線を戻す。表に赤字で「医療費・給付金の明細」と記されている。消印は六月十三日、つまり三日前。姉が働いていた会社ならば当人が亡くなったことは既に知っているはずだが、宛先を変えぬまま出したのだろうか。

「さっき、たまたま香奈の部屋の郵便受けを見てみたら入っていたの。……どうする?」

 どうする? 腕を組んでしばらく考えた。これはあくまでも姉宛の郵便物だ。プライバシーに関わることなので勝手に開けるのは本来はNGだろう。だが姉はもうこの世にいない。この中身を見るのは許される範囲かどうかが微妙だが、場合によっては何かしら料金を支払う必要があるかもしれない。――ふと我に返り、あれこれと頭の中で勝手な言い訳を考え始めた自分に苦笑した。結局は内容を知りたいだけなのだ。

「とりあえず開けて中身を確認してみようと思います」

「そうね」

「部屋に上がりましょうか」

 僕たちはアパートの中に移動した。姉の部屋にはペーパーナイフのような気の利いた文房具はないので、高田さんは台所に代用品を探しに行った。その間、封筒を手に取り何となく蛍光灯の光に透かしてみた。

「……ん?」

 首を傾げて封筒を見つめる。糊付け部分の陰影にどこか違和感があるような気がする。ガム状の糊を剥がした後で再び封をしたような形跡。指でなぞると確かにでこぼこしている。

 しばらくして高田さんがキッチン鋏を持ってきたので、それを受け取り何事もなかったかのように封を切った。中から出てきたのは生前に姉が勤めていた会社の健康保険組合からの書面で、先月の支給明細が記されていた。だがこれは――。

「…………」

「何か変なことでも書いてあるの?」

 口で説明するくらいなら見てもらった方が早い。僕は無言で書類を高田さんに差し出した。受け取って読み進める高田さんの顔が次第に厳しくなった。

「産婦人科病院? 香奈、妊娠していたの?」

「これだけの情報ではそうとは限りませんが」

 自殺のほぼ一ヶ月前、五月五日に『水野産婦人科』で行った医療処置に対して保険料が支払われている。しかも五月五日といえば休日、それもゴールデンウィーク中だ。出産? 流産? それとも中絶?

「司君、香奈が離婚したのって確か去年よね?」

「去年の十月と聞いています」

「やっぱり妊娠していたのかしら……」

 腕を組んで天井を見上げる。どうもひっかかる。姉が自殺の直前に妊娠していたという可能性を受け入れたくないという感情論かもしれないが、色々としっくりしないことがある。

「あの、ひとつ聞きたいのですが――」

「なに?」

「高田さんは最近、姉と会っていなかったのですか?」

 目を瞬き、きょとんとした表情で高田さんは僕を見た。

「どういうこと?」

「もしも姉が妊娠していたとして、それに気づかなかったのかな、と」

「……ああ、そうね、確かに言われてみると最後に直接会ったのは四月くらい。そのときは特に変わったところは気づかなかった」

「そうですか」

 場所が場所だけに嫌な予感がするが、事実を確認したいという気持ちの方が強かった。腕を解くと高田さんと目が合った。

「今日は司君のお祖母さんのところに行く予定だったけど、どうする?」

 僕の意思を確認するようなまなざし。迷うまでもない。

「こちらを優先して病院に行ってみようと思います」

「場所は分かる?」

「待ってもらえますか」

 携帯電話を取り出して検索サイトにアクセスし、病院名で調べるとすぐに所在地が分かった。

「ここからそれほど遠くないみたいです」

「見せて」

 高田さんは擦り寄ると携帯電話を覗き込んだ。すぐ目の前に高田さんの顔があり、それを意識して胸が高鳴った。ほのかに柑橘系の香りが漂ってくる。今まで気づかなかっただけかもしれないが、高田さんが香水を付けていたことを初めて知った。

「うん、これなら歩いて行けそうな距離ね」

 姉のアパートから徒歩二十分くらいでその病院に着いた。個人経営と思しきそれほど大きくない建物だった。ガラス戸を開け、傘立てに傘を置き、スリッパに替えて受付まで行くと中年の女性が笑顔で頭を下げた。

「こんにちは。本日は奥様の診察ですか?」

 奥様というのが高田さんのことだと気づくのに少し時間が必要だった。隣で高田さんが口に手を当て、声を押し殺してくすくす笑っている。僕は軽く咳払いをしてから答えた。

「……この人ではなく、以前にこちらの病院に僕の姉が通っていたようなので、そのことで確認したいことがありまして」

 慌てて訂正をするとよほど僕の言動が不審だったのか、女性は急に真顔になり僕と高田さんを交互に見た後、抑揚のない口調で言った。

「患者さんのお名前を教えていただけますか」

「滝沢香奈といいます」

 女性はタキザワカナ、タキザワカナと名前を復唱しながら手元の紙にペンを走らせた。

「当院へのご来診はいつ頃のことですか」

「先月です」

「次に、滝沢香奈さんの生年月日をご存知でしたら教えてください」

 僕を不審者として疑っている。いや、マニュアル通りに確認しているだけかもしれない。患者のプライバシーに関する情報を気軽に他人に漏らしてしまう病院の方がよほど不安だ。僕は姉との年齢差と自分の生年から計算した年、そして誕生日を答えた。続いて身分証明書の提示を求められたので運転免許証を差し出すと、相手はお借りしますと言って奥に姿を消した。こちらからは見えなかったが複写機らしき動作音がし、しばらくして戻ってきた。

「お返し致します。――それでは後ほど名前をお呼びしますので、他の患者さんと一緒にお待ちください」

 緊張していたのだろう。ほっとした気分で長いすに腰掛けた。背もたれに背中を預けて深呼吸すると高田さんが肩を指でつついた。顔を向けると満面の笑顔だった。

「どうかしました?」

「ねえ、さっきの聞いた? 聞いた? 奥様だって!」

「…………」

「わたしたち、夫婦に見えたのかしら。ということは司君は旦那さんってことよね。ね、あなた?」

 高田さんも人が悪い。僕は苦笑いするしかなかった。

 待合室には僕たちを除いて二人いたがどちらも女性で、目立つほどではないが腹部が膨らんでいるようなのできっと妊婦なのだろう。早くて三番目、場合によっては他の患者を優先してもっと後になるかもしれない。手持ち無沙汰だったので置いてあった雑誌を読むことにした。女性週刊誌を読むのは初めてだったがおよそ想像していた通りの内容で、あまり読んで気持ちのいい内容ではなかった。

 ふと隣を見ると高田さんは黙ってページをめくっていた。文章を読んでいるのではなく、ページをただめくっているようだ。表情が硬い。

「……ん? どうかした?」

「いや、何でもないです」

 やはり先ほどまでの明るさはない。確証はないがあの悪ふざけも無理をしていただけのような気がする。再び週刊誌に目を戻し息苦しく落ち着かないで待っていると、二人の女性の診察が終わった後に名前を呼ばれた。

 指定された部屋のドアを開けると、事務机に向かった女性の医師がやや上目遣いの鋭い目線で僕らを出迎えた。もし母が生きていたらこれくらいの年齢だろうかとふと思う。

「そちらの椅子にお掛けください」

 促されるままに僕と高田さんは近くにあった丸椅子を引き寄せ、肩が触れ合うくらい隣り合って腰掛けた。医師の背後にあるカーテンの透き間から医療器具――内診台と思しき装置が見える。ここが産婦人科であることを改めて実感した。

「お名前は滝沢司さんでよろしかったですか」

「はい」

「大体のご用件はうかがっております。お姉さんのことについて確認したいことがあるとか」

 僕は無言で頷いた。医師は椅子を回転させて僕らの正面に向くと、手にしたボールペンをノックしてカチリと鳴らした。

「あらかじめお断りしておきますが、当院では患者さんのプライバシーに関して守秘義務がございますので、たとえご家族でもむやみに情報を開示するわけには参りません。ご了承くださいますか?」

「……はい」

 相手に誘導されていると分かっていても他に返事のしようがなかった。自分で言うのも変な話だが、時折、こういった面倒な来客があるのだろう。場数を踏んだ者にしか出せない一種の凄みを感じた。

「それではまず、どういった理由で当院にいらっしゃったのかについて教えてもらえますか」

 言葉は丁寧だが有無を言わさぬ口調だった。正直に姉の健康保険の支払い明細を見てここを知ったこと、そして姉は自ら命を断ちこの世の人ではないことを簡潔に説明した。

「……そうでしたか。お悔やみ申し上げます」

 医師は眉をひそめて小さく頭を下げた。

「ところで失礼ですが、そちらの女性は?」

 紹介しようと思う前に高田さんは立ち上がった。

「申し遅れました、滝沢香奈の友人の高田といいます。差し支えなければ彼と一緒にお話をうかがってもよろしいでしょうか」

 そう言うと丁寧に深々と頭を下げた。一連の言動がごく自然だった。

「滝沢さんが許可されているのなら構いませんが――」

 そう言って医師は僕をちらりと見た。

「僕からもお願いします」

「分かりました。それでは話を戻しますが、滝沢香奈さんについて知りたいこととは何ですか?」

 ゴクリと唾を飲み込む。ジャケットの内ポケットから封筒を取り出し、中の書面を手渡した。無言で受け取った医師は難しそうな顔で目を通し、それから机上のカルテらしき紙と見比べてから答えた。

「これは当院での治療履歴で間違いありません」

「何の治療だったのですか?」

「自然妊娠中絶、つまり流産に対する医療処置です。誠に残念ですが進行流産でした」

 意外にも即答だった。幾らか予想はしていたものの改めて知らされるとショックだった。一瞬、意識が遠のく感覚――ぎゅっと高田さんが僕の腕を掴んでくれたことですぐに我に返ったが、見ると高田さんの顔は青ざめていた。大丈夫かと声を掛けようとすると苦しそうに笑った。

「……ごめん、しばらく腕を貸して」

 そう言って高田さんは僕の腕に身体を寄せた。全身が震えている。高田さんもショックを受けているのだろう。胸が痛む。僕は腕をそっと解くと、驚いた表情の高田さんの目を見ながら、代わりに膝の上に置かれていた手に自分の手を重ねた。高田さんは泣き出しそうな瞳で僕を見返した。

「他に何か質問はありますか?」

 医師の方に顔を向けた。この場を切り上げようとしているのが分かった。他に聞きたいこと、聞けそうなことは何だろうか。あらかじめ考えを整理しておくべきだったと悔やまれるが、今は言い訳を考えている場合ではない。

「もし知っていたら教えて欲しいのですが、姉はここへは一人で来たのですか。それとも誰かと一緒に来たのですか」

 言い終わった瞬間に後悔した。やはりこの質問はするべきではなかった。あからさまに医師の表情が強張った。

「基本的に付添人の方までは把握しておりませんし、また仮に存じ上げていたとしてもそのご質問にお答えすることはできかねます」

「申し訳ありません……」

「他には何かございますか?」

 高田さんを見る。うつむいたまま目を閉じて小さく首を振った。顔色が悪く気分が優れなさそうだった。

「いえ、これで十分です」

 僕らは礼を言って診察室を出た。

 分かったことが二点ある。

 ひとつ、姉は妊娠し、そして流産した。自殺のおよそ一月前の出来事。先の場では尋ねなかったが、治療期間が短いこと、そして一ヶ月前に顔を合わせている高田さんが気づいていなかったことから妊娠初期だったに違いない。従って妊娠のタイミングは離婚より後である可能性が高い。

 そしてもうひとつ――恐らく警察はこの情報を知らない。姉が死んだと言ったときの医師の態度が僕たちを騙すための演技でなければ、あの病院に警察は来ていない。つまり、そこまでは調べていないということだ。冷静になって考えれば当たり前のことだが、事件性がないと判断された以上、仕方のないことではある。

「流産、か」

 姉のアパートへの帰り道、ぽつりと高田さんが呟いた。

「――やっぱり自殺に関係しているのかな」

「時期から考えて何かしらの影響があったのは間違いないとは思いますけど、直接の理由だったかどうかは分からないですね」

「相手は誰だろう」

「前にも聞いたかもしれませんが、姉のストーカーだった相手に何か心当たりはないですか?」

「話したくらいしか知らないの」

 目を伏せ、高田さんは小声で答えた。見るとさっきよりも顔色がよくなかった。

「大丈夫ですか?」

「……わたし、怖い」

「…………」

 ――悲しいではなくて、怖い?

 黙って次の言葉を待っていると、おもむろに高田さんは背を向けた。

「ごめんなさい、用を思い出したからこれで帰るわね」

 さよならのあいさつを言う間もなく、高田さんは立ち去った。

 その夜、高田さんから電話はなかった。また僕からも掛けることができなかった。言い訳かもしれないが、今はそっとしておくべきだと思ったからだ。頭の中で様々なことが巡り続け、なかなか寝付くことができなかった。

六月十七日(金)

 バイトを終え、自分のアパートに帰ったのは夜の十一時過ぎだった。身体が疲れている上に夕食もまだだったが、高田さんのことが気になっていたので電話を掛けてみた。数回のコールの後に電話は繋がったが、声からしてまだ調子が悪そうだった。

「あまり気分がよくなくて――ごめんなさい、また今度、電話を掛けるね」

 それだけで電話は切れた。

 どうしようかと考える前に先に指がリダイヤルボタンを押していた。一コールで再び電話が繋がった。

「……なに?」

「さっき言い忘れたのですが、明日、海に行きませんか?」

「…………」

 すぐに返事は来なかった。気分が優れないと言っているのに強引に誘ったのだから断られても当然だ。それにしてもなぜ海に行こうと口にしたのだろう。自分でもよく分からないが、きっと場所はどこでもよかったのだと思う。気分転換になりそうな場所として真っ先に思い浮かんだのが海というだけだ。だが、高田さんを元気付けたいという気持ちに偽りはなかった。

 携帯電話を耳に当てたまましばらく待ってみたが一向に返事がなかったので、心配になって尋ねた。

「……すみません、やっぱり迷惑でしたか」

「ううん、迷惑じゃない。――何時に行けばいい?」

 本心かどうかは分からないが言葉では迷惑ではないと否定してくれたので、少しほっとした気分で胸を撫で下ろした。

「無理しないでください。大丈夫ですか?」

「うん、ありがとう」

 待ち合わせの時間を決めて電話を切った。

 自然にため息が漏れる。高田さんには落ち込んでいて欲しくない。いつも笑っていて欲しい。高田さんが無理して作ってくれた機会をふいにはしたくない。これは自分のためでもあった。

六月十八日(土)

 二時間ほど電車に揺られ、隣県のとある浜辺に到着した。幸い雨は止み薄曇りの天気だったが、シーズン前、それも雨上がりの海水浴場に僕ら以外の人影はなかった。時間が割と早いのも関係しているかもしれない。

 しっとりと水気を含んだ砂浜に下り立ち、波打ち際まで行った。二人で並んで遠くを見やる。緩やかな弧を描く藍青の水平線が鈍色の空と滲んでいる。

「司君が一緒じゃなければ来なかったと思う」

 遠くを見つめたまま高田さんは独り言のように呟き、海風に揺れる前髪をかきあげた。端正な横顔から表情は読み取れない。

「無理に誘ってすみませんでした。確かに梅雨時に来るような場所ではなかったですね」

「季節は関係ないの」

 どういう意味なのか聞けぬまま高田さんの次の言葉を待った。静かに寄せては引く細波の音が静かに辺りに響く。

「――司君は海が好き?」

 突然の問いにどう答えたらいいか迷った。これまで海が好きかと質問されたことがなく、真面目に考えたこともなかった。どうだろう、僕は海が好きなのだろうか。ある種の畏怖を感じることもあるが、でもこうして何気なく来てしまうということは少なくとも嫌いではないのだろう。

「好きか嫌いかの二択で答えるのなら、たぶん好きだと思います」

「普通はそうよね。――でも、わたしは嫌い」

 何気なくさらりと言ったその言葉に自分の耳を疑った。

 海が、嫌い――。

 昨晩、海に行こうと誘ったときにすぐに返事がなかった理由が、まさか海が嫌いだとは思いもよらなかった。本当は困っていたのに強引に連れて来てしまったことを今さらながら悔やむ。だが、嫌いだと言い切るということは、過去に海に関してよほど嫌な経験をしたことがあるのだろうか。

「ねえ、見て見て、この景色!」

 高田さんは視界に広がる海原に向かって大きく両手を広げ、おどけたように笑って言った。

「わたしたちが排水やゴミで汚し続けているのに、こんなに綺麗なままでいられるなんて信じられる? これってまさに奇跡だと思わない?」

 高田さんの言い分は分かる。海が汚れていると言われて久しく、ヘドロや油・廃棄物などで汚染された海域も確かに存在するが、それは目の前に広がるこの光景にも繋がっているはずだ。人間が汚しても汚し切れない美しさ。人知を超越したものを奇跡と呼ぶのなら、海にはその資格があると思う。

「でも、……綺麗だと思っているのにどうして嫌いなのですか」

「…………」

 高田さんは広げた両腕をゆっくり下ろすと振り返り、正面から僕と向き合った。戸惑っているような、どこか怯えたような視線が絡んだが、すぐに高田さんは目を逸らした。

「……何て言えばいいのかな、この計り知れない美しさに気圧されるの。絶対美のプレッシャーと言ってもいいかもしれない」

「絶対美、ですか」

「そう、誰にも有無を言わせない絶対的な――押し付けがましいまでに気高く、傲慢で残酷な美しさ。だから、わたしは幼いときから海が大嫌いだった。見るだけで吐き気がした」

 何か言わなければと考えたがとっさに言葉が見つからない。絶対的な美しさに圧倒される――その感覚は分かる。しかし、だからといって押し付けがましい、傲慢、残酷、吐き気がすると言わせてしまう高田さんの心中を完全には理解できなかった。口先で同意することもできたが、ひどく無責任な感じがして気が引けた。

「香奈もそうだった」

「――え?」

 どうしてそこで姉の名が出てくるのか分からず、僕は戸惑った。

 高田さんは目を細め、霞んで見える水平線に視線を移した。

「どんなことも笑って許してしまうことができる強さと包容力を持った、そう、まるで海のような人となりだった。わたしには理解できなかった。だからきっと、……嫌いだったのだと思う」

「…………」

 意外な告白だった。これまでの発言や行動から高田さんと姉は無二の親友だったと思っており、まさかそんな感情を抱いていたとは想像もできなかった。

 高田さんは再び振り向くと僕を見つめたまま両手をぎゅっと握り締め、唇を横に引いた。

「でも改めて考えると、本当は単に羨ましかっただけだと思う。自分にない美しさ、優しさを妬んでいただけ。香奈の美徳に嫉妬して卑屈になっていただけ。それだけ、ただそれだけなの。――あははっ、わたしって本当に嫌な女よね。司君、軽蔑した?」

 薄ら笑って僕を見たその瞳はひどく悲しい色をしていた。

「だけど、香奈が自殺したと聞いて、わたしが知らないところで苦労していたことを知って、少しずつ考えが変わってきた。あれは無理をしていただけで、本当はとても苦労していたのだと。わたしが知らなかっただけで、自殺してしまうほど思い詰めていたのだと。そして香奈に嫉妬していた自分の気持ちにようやく気づき、心の中に巣くっていた黒い感情を知り、たまらなく嫌で怖くなった――」

 こんなに自分のことを話す高田さんを見るのは初めてだった。たどたどしい言葉での告白、それは懺悔と言ってもいいかもしれない。前に高田さんが言った「怖い」という言葉の意味が今になってようやく分かり、胸が苦しくなった。

「わたし、自分がひどい人間だと知らずにいるところだった。気づかせてくれたのは司君、あなた。ありがとう。本当に感謝している」

 遥か遠くの空で鳶の鳴き声がした。

 僕は目を瞑り、ゆっくりと首を横に振った。

「感謝されるようなことは何もしていませんし、それに高田さんはひどい人ではないです」

「でも」

「さっきの話を聞いた僕がそう思っている――それだけじゃ足りませんか?」

「…………」

 高田さんは溢れる涙を手の甲で拭ったがいつまでも止まらず、その場に座り込んだ。頬を伝って涙が零れ落ちる。子どものように泣きじゃくる高田さんの背中を僕はいつまでもさすり続けた。

六月十九日(日)

 午後、姉のアパートの前で高田さんと待ち合わせ、高田さんの車で祖母のいる青柳家に向かった。最初は二人で一緒に会うことも考えたが、高田さんをどうやって紹介したらいいか分からないので車の中で待ってもらい、僕一人で行くことになった。足として使ってしまったことが申し訳なかったが、今回は「気にしないで」と言ってくれた高田さんの好意に素直に甘えておくことにした。

 姉のアパートから実家まで車でおよそ一時間、そこから更に一時間半進んだところに青柳の家がある。丘陵地の山肌を削って作られた新興住宅地で、宅地や周辺道路が整備されるときに先祖伝来の土地を買い上げられた青柳家は、一旦は隣の市に移り住んだが、集合住宅が完成すると再びこの地に戻ってきた。僕が幼稚園に通っていた頃の話だ。

 今風だが落ち着いた雰囲気の二階建て住宅で、手入れの行き届いた庭では名前の知らない花が悠々と艶やかに咲き誇っている。それにしても蒸し暑い。ハンカチで額の汗を拭いながら空を見上げると今にも夕立が来そうな雲行きだった。

 玄関のインターホンを押してしばらくすると、慌ただしく駆けてくる足音がしてドアが開いた。

「あら、司君。いらっしゃい」

 現れた志津おばさんは普段着の上からエプロンを着けていた。早い時間のつもりだったが、ひょっとしたら既に夕飯の準備に取り掛かっているのかもしれない。

 この志津おばさんは亡くなった母の姉に当たる人で、祖母、そして婿養子として青柳家に入った洋之おじさんの三人で暮らしている。滝沢の人間は人付き合いがよくなく親戚との繋がりもあまりないが、昔から例外的に母の実家とはそれなりに交流があった。先日の姉の通夜・葬儀にも叔父と叔母が来てくれたが、そのときは一言二言、言葉を交わしただけだった。

「先日はありがとうございました」

「香奈ちゃんのことは残念だったけど、元気を出してね」

 僕は無言で頷いた。

「司君がうちに来てくれたのって久し振りよね。――あっ、こんなところで長話もなんだから上がって上がって。美味しいお菓子を出してあげる」

 そう言って嬉しそうに手招きするので、誘われるままに玄関を上がり応接間に入った。

 革張りのソファーに腰掛けて辺りを見回す。真空管アンプの古いレコードプレイヤーや本棚に整然と並んだ植物関連の書籍は昔と変わらないが、本棚の空いたスペースに幾つも置いてある小さな帆船のプラモデルが目新しい。恐らく洋之おじさんが作った作品で、パーツの塗装も自分で行ったのだろう。ちょうど紅茶とクッキーを載せたお盆を手に志津おばさんが戻ってきて、僕の視線に気づいて笑った。

「その変な船のおもちゃね、最近、急に増えちゃってわたしも困っているのよ。植物も船のおもちゃも子ども代わりってところなのかもね」

 テーブルにソーサーとティーカップを並べながら志津おばさんは言った。口では困っていると言いながら少しも困っていなさそうなところが微笑ましかった。

「おじさんは外出中ですか」

「そうなの。今日も天気があまりよくないっていうのに、どこかに出掛けているのやら。たまの休みくらい家でゆっくりしていてもいいのに」

 私立大学で植物分類学の教授をしている洋之おじさんは、しばしばフィールドワークに出掛けるため家にいないことが多い。それでも志津おばさんは洋之おじさんのことをよく理解しており、この年になってもときには恋人のように、ときには親友のように連れ添っている。身内贔屓を差し引いても本当に仲のいい夫婦だと思う。

「ところでばあちゃんは元気ですか?」

「…………」

 突然の質問に志津おばさんは手を止め、顔を曇らせた。

「……司君は知らなかったかもしれないけれど、お母さんは去年から老人ホームに入っているの」

 正直、老人ホームという言葉にあまりいいイメージはない。家族が面倒を見切れなくなった末に行かされる場所という印象がある。正面のソファーに腰を下ろした志津おばさんは目を伏せ、揉み手をしながら困った様子で言った。

「あのね、言い訳になっちゃうけど、わたしたちは反対したのだけれど、本人がどうしてもって……」

 きっとその言葉に嘘はないだろう。僕の目から見て三人は仲のいい家族で、外聞を気にして繕った脆弱な関係には見えなかった。志津おばさんの言う通り祖母が自分から言い出して家を出たのだろう。

 ――そういえば姉は「祖母に会いに行く」と言っていたと高田さんから聞いている。祖母個人と会うのが目的ならばここではなく老人ホームに行ったことになる。

「今度、会いに行こうと思うので場所を教えてもらえますか」

「OK。後で教えてあげる」

 ティーカップを手に取り口元に運ぶ。ブレンドされたハーブの香りが気分を落ち着かせてくれる。ここに来た目的は姉の自殺直前の様子を探ることだったが、祖母がいない以上、他に何か確認することはあるだろうか。

「――ねえ、司君。本当は何か用があってここに来たのでしょう?」

 顔を上げる。志津おばさんはおっとりとしているようで察しがいい。昔からそうだった。黙っていても通じる間柄――実の家族のように錯覚することがある。せっかくの機会なので無駄かもしれないが聞いてみることにした。

「こちらに最近、姉が来ませんでしたか?」

「香奈ちゃん? もちろん亡くなる前のことよね?」

 頷くと志津おばさんは頬に片手を当てたままゆっくり首を傾げた。

「そうねえ、どうだったかしら。先月か四月か――いつが最後だったかはあまりはっきりと覚えていないけど、このところは割とちょくちょく来ていたわよ」

 姉がここによく来ていた? 意外な話だった。静かにティーカップを置き、僕は尋ねた。

「姉は何のために来ていたのですか?」

「こら!」

 急に大声を出されてびっくりした。

「理由がないと親戚の家に行かないというその考え方、直しなさい」

 そう言って志津おばさんは微笑んだ。優しく暖かな笑みだった。

「いい? わたしたち、赤の他人じゃないんだから。いつだって気軽にうちに来てくれて構わないのよ」

「……分かりました」

 よろしい、と志津おばさんはにっこり笑った。確かに幼い頃は僕もよくこの家に遊びに来ていたが、年が経つにつれていつしか足が遠のいていた。あまり多くは語らないが、僕たち姉弟を自分たちの子どものように可愛がってくれた青柳の人たちにとっても姉の死はショックだったのではないかと思う。

「――で、さっきの質問の答えだけど、香奈ちゃんはお母さんに話をしに来ていたのよ」

「ばあちゃんとですか?」

「違う違う。あなたたちのお母さんよ。せっかく久し振りに来たのだから、あなたも挨拶をしていったら?」

「挨拶? 母とです?」

 事情が飲み込めずどういう意味かとしばらく考えていると、志津おばさんはまじまじと僕の顔を見つめながら言った。

「もしかして志保の遺骨がうちにあるの、司君は知らなかった?」

 奥にある仏間に入るのは初めてだった。昔から時折、この部屋から祖母の読経が聞こえることがあったので存在自体は知っていたが、足を運ぶ機会がなかった。きっと真剣に経文を唱える祖母の声が死を連想し、子ども心に怖かったのではないかと思う。

 ゆっくり仏壇に近づく。金箔が剥がれかけている仏壇の中央、並んだ位牌のひとつの前に生前の母の写真が飾られていた。これまで写真すら見たことがなく顔を知らないので本人だという根拠はないが、目許や全体の雰囲気が姉や志津おばさんに似ているので恐らくそうだろう。見ているこちらが思わず微笑み掛けてしまいそうな柔和で幸せそうな笑顔。これが母――僕を産んで間もなくこの世を去った人。そういえば今さらながら母と姉の亡くなった年齢がさほど変わらないことに気づいた。二人ともあまりに短か過ぎる人生だった。

 ふと後ろを振り向くと、ここまで案内してくれた志津おばさんがいつの間にかいなくなっていた。気を利かせて席を外したのだろうか。

 仏壇の前に正座して手を合わせ、目を閉じる。何か母に伝えておくべきことはあるだろうか。考えてみたがとっさに思い浮かばない。だが、別にわざわざここで報告しなくてもいつも遠くから見守ってくれているに違いなく、それに今はすぐ隣に姉もいるはずだ。二人の時間をわざわざ邪魔することもないだろう。

 ――そちらに行くのはもう少し後になりそうです。

 それだけを心の中で呟き、目を開けた。

 立ち上がってもう一度、仏壇を見やったときに、写真の額縁の裏に何かが置いてあるのに気がついた。近づいて手に取るとオレンジ色の小さな手帳だった。表に白地で「母子手帳」と書かれてあり、開いてみると生まれたときの僕、そして母の情報が記入されていた。どうしてこんなところにあるのだろうとぼんやり考えながらページをめくる。

 ある記述で目が止まった。胸の動悸が早まる。

 この手帳には僕の血液型としてA(AO+)と書いてあるが、その隣にある母の血液型がB(BO+)となっている――。

 これまで母の血液型はAB型だと父から聞いていた。父はO型、姉はB型、そして僕はA型。何ら矛盾はない。しかし、もし母がB型で父がO型ならば、二人の子どもとしてA型である僕が生まれてくることはあり得ない。

 ちょっと待て、落ち着いて情報を精査しよう。そもそもここに書いてある情報は正しいのだろうか。娩出直後の子どもの血液型判定で間違えることがあると聞いたことがある。いや違う。僕の血液型はそれから何度調べてもA型であり、それに今、問題なのは母の血液型だ。母体の血液型を誤ることは考えにくいし、仮に間違いがあったとしても、手帳を受け取った本人が気づいて訂正されるはずだ。そもそも母の血液型がAB型だと思っていたのは父から聞いた情報が元になっているが、事実と異なるのならば意図的に嘘をついた可能性が高い。その理由は僕の出生に問題があるということなのか。母子手帳に僕と母の名前があるということは、少なくとも母親は合っているはず。とすると父親が違うということなのか。考えたくはなかったが他に現実的な理由が思いつかない。

 もうひとつ、なぜ母の遺骨や位牌がこの家にあるのか。生家だからといって分けることはあるのだろうか。単なる僕の知識不足だろうか。それとも何か特別な理由があるというのだろうか。そもそも滝沢の家に母の遺骨があるのかすら疑わしい気がしてきた。二十年前、母、そして僕に何があったというのか――。

 一緒に夕食を食べようという志津おばさんの勧めを断って青柳家を出た。高田さんを外で待たせているのでもともと早めに切り上げるつもりだったし、それに今は頭が混乱していて青柳の人たちと平然と食事をする自信がなかった。よじれるように痛む胃を手で押さえる。気圧が下がってきたためか偏頭痛も始まった。

 折しも暗くなった空から夕立が降り始めたので持ってきた傘を差し、高田さんの車が止まっている場所へと向かった。だが、近くまで来て僕の足は止まってしまった。車に戻りたくなかった。青柳の家で知ったことをどう説明すべきか考えがまとまっていない。話したくない。いや、こんなことを話せない。それならば黙っていればいいのだが、高田さんにどんな顔をしたらいいか分からない。今の自分がどんな表情をしているか分からない。自分が、保てない。どうしたらいいか、分から、ない――。

 クーペのオートウィンドウが開き、高田さんが顔を出した。

「お帰り。どうだった?」

 無邪気な高田さんの笑顔を見た刹那、視界が揺れたかと思うと目の前が真っ白になり、膝の力が抜け、――意識が暗転した。

「……さ……つか……ん……」

 まぶたをゆっくり開けると、顔に息がかかるくらいすぐの距離に高田さんの顔があった。

「つ、司君、気がついた?」

「…………」

 頭の芯がずしりと重く、こめかみの辺りがズキズキ痛む。どうして仰向けになっているのか。状況が把握できない。身体を起こそうとしても腕にも腰にもまったく力が入らなかった。

「駄目、まだ動かないで」

 心配そうな高田さんの顔をぼんやり眺めながら、――立ちくらんだ後に気を失ったのだとようやく理解した。地面に寝かされている。恐らく倒れたときのままの状態なのだろう。高田さんが傘を差してくれているので直接雨は当たらないものの、濡れた背中が冷たい。下着まで雨水が染み込んでいるようだ。どれくらいの時間、意識がなかったのだろう。腕を上げようとしても相変わらず重たくて上がらず気分もよくないが、とりあえず怪我はなさそうな気がする。

「頭は打っていない?」

「たぶん、打っていないと思います」

「よかった……」

 高田さんは傘を持っていない方の手の袖で目を覆った。見ると高田さんの両手は泥水で汚れていた。どうして泣いているのか聞くことができなかった。高田さんは初めて会ったときから泣いてばかりいる気がする。昨日、姉の強さが羨ましかったと言ったが、僕から見れば人前で涙を流すことができる高田さんの方がよほど強くて羨ましいと思う。

「冷たいでしょうけど、親戚の方を呼んで来るまで少し我慢して」

 高田さんの言葉に急に我に返った。このことを青柳の人たちには知られたくない。まだ頭痛はするが幾分か引いたようなのでゆっくりと身体を起こして立ち上がった。軽く頭を振ってみる。僅かに目眩のような感覚が残っているが我慢できそうだ。手首に倒れたときにアスファルトで擦った擦り傷ができていたが大した程度ではない。

「もう大丈夫です」

「でも顔色が悪いし、濡れているから身体を乾かさないと……」

「そうですね」

 曖昧に返事をしたが、高田さんの言葉は頭まで届いていなかった。立ち上がってふらふらと歩き出す。すぐにでもここではない、どこか別の場所に行きたかった。今の自分を高田さんに見せたくなかった。哀れみの目で見られたくなかった。慰めの言葉を聞きたくなかった。とにかく一人になりたかった。逃げたかった。

「つか……さ君……」

 背後で傘が地面に落ちる音がし、直後にジャケットの裾が掴まれた。だが、振り向くことはできなかった。

「考え事があるので少し歩いてから帰ります。高田さんは先に車で帰ってください」

「でも」

「一人にさせてもらえますか」

「……何があったの?」

「放っておいてください!」

 自分でも驚くような大声で叫んでいた。

 高田さんの手が力なく離れる。背後で「ごめんなさい」と涙声で呟くのが聞こえたが、足早にその場を立ち去った。

 見苦しい言い訳なのは分かっているが、自分のことを考えるだけで精一杯で、これ以上、気が回らない姿を見せたくなかった。自分勝手で情けない思いをぶつけたくなかった。高田さんを傷つけたくなかった。憐れんで欲しくなかった。何よりも自分が傷つきたくなかった。本当に身勝手だ。激しさを増した雨に打たれながら、高田さんとの関係もこれきりかもしれないと、もう一人の僕が耳元で囁いた。

 その後、叩きつけるような豪雨の中、全身ずぶ濡れのまま暗闇で先が見えない道をひたすら歩き続けた。筋肉痛の上に雨で濡れた足は鉛のように重く冷たく、引きずるように一歩一歩を踏み出すものの、どこに向かっているのかまったく分かっていなかった。

 突然、両足がつり、耐え切れずその場にしゃがみ込んだ。腱を切ったかのような鋭い痛みがいつまでも引かない。痛む足を手で押さえたまましばらくそのままでいると、たまたま通り掛かったタクシーの運転手に声を掛けられ、言われるまま乗せてもらうことになった。シートを濡らして申し訳なかったが、老年の運転手は一言も文句を言わなかった。ふくらはぎを手で揉んでいるうちにアパートの前まで到着した。雨に濡れた財布を取り出して二万余円の料金を払おうとしたが、運転手はぶっきらぼうに「五千円でいい」と言い、それ以上は頑なに受け取ってくれなかった。礼を言うと「いいから早く風呂に入って寝ろ」と怒鳴られ、そのままタクシーは去った。

 部屋に帰るとパジャマに着替え、風邪薬を飲んでベッドに入った。うとうとしかけた頃に携帯電話の着メロが鳴った。手に取って確認すると高田さんからの着信だったが、話したくなかったのでそのままにした。ひとしきり鳴った後、静かになった。しばらくしてまた鳴り出したが、すぐに途切れた。三回目はなかった。そして、唐突に眠りに落ちた。

六月二十日(月)

 どんな日にも朝はやってくる。風邪を引いた上に低気圧のために体調が優れず大学に行く気が起きなかったが、あまり講義を休むわけにもいかなかったのでシャワーを浴びてのろのろと支度をした。昨日の昼からほとんど何も食べていなかったが、相変わらず胃が重たく食欲がなかった。仕方なくコップ一杯の牛乳で風邪薬と栄養剤を喉に流し込み、アパートを出た。

 今日も本格的に雨が降っていた。まるで僕を拒むかのような激しい大粒の雨。――いや、それは違う。僕のネガティブな思考がそう思わせているだけだ。世界が僕を拒んでいるのではない。僕が世界を拒絶し、目の前の現実から逃げ出そうとしているだけだ。自転車を諦め、傘を差して歩く。足がまだ痛んだが、それでも歩くしかなかった。

 講義の時間、気がつくと根拠のない妄想がすぐに頭をもたげて心をかき乱し、なかなか集中できなかった。体調があまりよくないこともあって弱気になっているようだ。頭を振り、大きく息を吐いて現実世界に戻る。

 何を恐れている。聞いている父の血液型が間違っているのかもしれない。母や僕の血液型が違っている可能性だってゼロではない。だが、それらの可能性を打ち消すだけの情報を僕は持っていない。もし仮に僕が父と母の間に生まれた子どもではなかったとして、僕はどこの誰から生まれたのだろう。この事実を知っていたのは誰だろう。知らなかったのは誰だろう。周りの人はすべて知っていて、知らないのは自分だけではないだろうか。知らないということがこれほどもどかしいと思ったことはなかった。

 そして高田さん――昨日の自分の態度を思い返してさらに自己嫌悪に陥った。自分から高田さんを巻き込んでおいて、勝手な我がままで傷つけた。自分のことしか考えが及ばず、一生懸命に協力してくれる高田さんの好意を知っていたのに、知らぬ振りを、気づかない振りをし、都合が悪くなって突き放して逃げ出した。最低だ。僕は最低の人間だ。高田さんに合わせる顔がなかった。

 昼休み、午後の講義がある教室で野菜ジュースで昼食を済ませて机に突っ伏していると電話が掛かってきた。相手は大島さんで、姉のPCをリサイクルショップに持ち込んだ人物が見つかったという知らせだった。

 その人物は店の近所に住む男子高校生で、六月四日――姉が自殺した日の翌朝、犬の散歩中に紙袋に入った状態で道端に放置してあったのを拾ったという話らしい。今のところ姉との接点は判明しておらず、また姉が亡くなった時間の確実なアリバイもある。だが、その高校生が嘘をついていないとすると誰かがそこまで運んだはずなので、引き続いて目撃者を探してみるつもりだと大島さんは言った。また、調査が終わったのでノートPCを買い戻してもいいと付け加えてくれた。礼を言って電話を切る。

 これで姉の部屋からPCを持ち出した人物がいることが明らかとなった。誰が何のために――いや、後は警察の仕事だ。素人の僕が手持ちの少ない情報であれこれ考えたところでさほど意味があるとは思えない。はっきり言って無駄だ。ここはプロである大島さんたちに任せよう。頭の中で言い訳の言葉を探していた。正直に言うと自分のことで精一杯で、死んだ姉のことまで気が回らなくなっていた。むしろどうでもよくなっていた。無責任な自分の考えに呆れつつも今はどうしようもないと、納得している自分がいた。

 夕方からバイトのシフトが入っていたので、大学が終わるとすぐに書店に直行し、予定時間より早く仕事を始めた。何も考えずに身体を動かせることがありがたかった。余分なことを考えたくなかった。だから手を動かす。足を動かす。頭を使う。笑顔を作って頭を下げる。今の僕は魚のようなものかもしれない。泳ぎを止めてしまうと酸欠で死んでしまう。だから泳ぐ。生きるために泳ぐ。仕事に集中することで何とか自分を保っていられた。だがそれでも自覚はなかったが時折ぼんやりとしていたらしく、同僚に何度か指摘を受けた。

 家に帰り、そのままベッドに倒れ込んだ途端に眠りに落ちていた。目が覚めると午前一時過ぎだった。二時間ほど寝てしまったようだ。電気を消して再び寝ようとしても頭が冴えてしまって寝付くことができない。全身が寒く、息苦しい。頭の外側が鈍くズキズキと痛む。額に手をやると朝より熱が上がっていた。喉にも違和感がある。一度起きて、睡眠薬代わりを期待して多めに風邪薬を飲んで布団を被ったが、それでもなかなか眠りが来ない。早く寝なければと思えば思うほど意識が醒めてゆく。残酷にも刻々と進む時計の針の音。やがて空が明るみ始め、目覚めた小鳥たちの鳴き声がし始めた。時と現実の重圧に押し潰されそうになりながら朝を迎えた。

六月二十一日(火)

 気がつくといつしか姉のアパートまで来ていた。大学帰りにわざわざ電車に乗って来たのだから本当は「いつしか」という表現はおかしい。ここに来たいという自分の意志で来た。それは間違いない。だがどうして来たのか、はっきりとした理由はなかった。恐らく漠然と静かな場所で一人になりたかったのだと思う。

 明かりをつけぬまま、カーテンを締め切った暗い部屋の片隅で膝を抱える。外からホワイトノイズのような小雨の雨音が聞こえる。風邪を引いているという理由もあるだろうが、湿度が高く喉の奥や肺が苦しい。手の甲で額に浮かんだ汗を拭う。べっとり濡れた背中が気持ち悪かった。僕はこの部屋で何をしているのだろう。現実逃避――この言葉が一番合っている。何もかもから逃げたかった。だから目の前の現実から逃げ出した。形容し難い不安に満ち、いつまでも心の中のざわめきが収まらなかった。心を落ち着けるためにここに来たはずなのにかえって悪化している。どうして、何を、恐れている。問いかけても誰も答えてはくれない。自分の置かれた状況に戸惑う自分、それを冷静に分析する別の自分、何も考えられないもう一人の自分、助けを求める自分。自分の思考についていけない。

 ――昔のことを思い出していた。

 あれは小学二年生くらいのことだったか。自動車パーツメーカーの営業部署に勤める父はいつも仕事が忙しく、深夜まで帰宅しない上に休日出勤も多く家にいることが少なかったが、その父に我がままを言って駄々をこね、金曜の夜に家族三人で突発的なドライブに出掛けたことがあった。ちょうど今と同じくらいの時期だと思う。どこに行きたいか尋ねられてまっ先に「海!」と答えた僕の意見が採用され、中古の軽自動車は一路、海を目指した。

 久し振りの旅行に僕と姉は喜び、エアコンも付いていないオンボロ車の後部座席で始めは大騒ぎしていたが、時間が遅かったせいもあり眠気に勝てず、しばらくすると二人とも眠ってしまった。

「……着いたぞ」

 父の声に目を覚ました僕と姉は我先にと車の外に飛び出した。そこは小さな入り江だった。波の音に向かって二人は駆け出し、――待ち望んだはずの景色を目の当たりにして思わず足を止め、息を飲んだ。

 例えるならばそれは常闇の化身だった。どうどうと不気味な音を立てて押し寄せては、防波堤に叩きつけられて砕け散る漆黒の水塊。目の前で繰り広げられる自然現象が怖くて仕方なく、僕と姉は父の腕にしがみつきながら震えていたが、父はいつまでも黙って海を見続けていた。今考えると海が怖いと思ったのはこのときが初めてだったような気がする。

 その後、家路についたのは朝の五時過ぎで、いつの間にか頭を並べて熟睡していた僕と姉は父に起こされ、すぐに布団で寝かされたが、その日も父はいつもの時間にきっちりと会社に出掛けて行ったことを後で知った。

 ――家族とは何だろう。テレビドラマや小説の中では、たとえ血の繋がりがなくとも絆さえあれば家族関係を築けるということになっている。その言い分は分かる。いや、これまで理解しているつもりだったが、いざ自分の中に流れる血の出所が怪しくなった途端、そんなに簡単に割り切れるものではないことを知った。疑うまでもなく当たり前だと信じていたものを急に否定され、なけなしの理性が悲鳴を上げている。悲しみや怒り、怯えではない、上手く言葉で表現できないもっと混沌とした感情が身体の深いところで蠢いている。誰でもいいから教えて欲しい、僕は果たして滝沢家の一員なのだろうか――。

 帰宅中は比較的落ち着いていたが、アパートの部屋に帰ると再び形のない空虚感がじわじわと僕を侵し始めた。ベッドで横になって天井を眺めると自然にため息が漏れる。

 今日も高田さんからの電話はない。何も言うまい、自分で招いた結果だ。それにまだ高田さんと話したくなかった。話すことで相手に迷惑を掛けてしまい、結果的に自己嫌悪に陥るに決まっている。身勝手な逃避だと分かっていても、接触を極力避けること以外に方法が思いつかなかった。

 何もやる気が起きず身体も疲れていたので、シャワーを浴びてから風邪薬を飲んで早めにベッドに入った。だが、今日も眠ろうとしても眠れない。手足がだるく頭は朦朧とした感じだが、心臓の動悸が鼓膜に張り付いて眠りを妨げる。幾度となく寝返りを繰り返す。胸が苦しい。頭痛も一向に引かない。

 不意に高田さんから聞いた姉の言葉を思い出す。

「姉と弟の関係じゃなかったら惚れていたって」

 姉――滝沢香奈と僕の関係は何だったのだろう。これまで実の姉弟であることを疑ったこともなかったが、本当は血が繋がっていなかったということか。しかも姉はその事実を知っており、姉としての芝居を打っていたというのか。

 姉は幼い頃は身近な遊び相手だったが、物心ついたときから父子家庭の母親役としていつも世話をしてくれ、毎日の食事や洗濯といった家事のほとんどを一言の文句も言わずごく当たり前のようにこなしていた。改めて思い返すと、姉なしでは生活が成り立たないほど頼り切っていた。だがその姉も短大への進学と同時に家を出た。僕はそのとき高校一年で、しばらく家事が混乱したのを覚えている。その後、二度ほど電話で簡単な会話を交わした記憶はあるがそれきりで、四年後の再会は通夜の席、送る側と送られる側だった。

 思い出から自分の出生に関する何かしらの情報を引き出そうとしてみたが、どれも都合よく脚色されていて役に立たなかった。そもそも今まで何も知らなかったのだから、有益な情報があるとは思えない。当たり前と言えば当たり前の話だ。

 肺のすべての空気を絞り出すように大きく息を吐き出し、頭を振る。このまま疑念や不安を引きずったまま、ただ待っていてもきっと何も変わらない。誰も解決してはくれない。それならばはっきりさせるために自分から動くしかない。動かなければ一生、このような夜を過ごすことになる。いいのか。よくない、このままでいいはずがない。

 母はこの世にいない。姉ももういない。滝沢家に残っているのは父と僕の二人であり、ここは父を問い質すのが筋ではあるがあの性格だ。知っていても知らぬ存ぜぬを貫き、自分の墓場まで秘密を持って行くことも十分にあり得る。それならば他の手段に望みを掛けるしかない。父と話をするためのきっかけで構わない、確実な情報を入手する必要があった。

六月二十二日(水)

 その日、大学を休んだ僕は実家のある市へと向かった。行き先は自分の家ではなく市役所――もし僕の生まれに問題があり、かつ法的に処理されていれば戸籍に何らかの履歴が残されているはずなので、その有無をどうしても自分の目で確認しておきたかった。

 いつも帰省するときのようにバスに揺られながら、曇り空に溶け込みそうなくすんだ街並みを虚ろに眺める。僕が生まれ育ったこの街はいわゆるベッドタウンで特に目立った産業はない。人が暮らすための街、生きるための街、帰るための街、始まりと終わりの街。生まれてから高校を卒業するまでの十八年間暮らした場所で、ここ最近は頻繁に来ているものの、大学生になって一人暮らしを始めてからは半年に一度くらいしか帰っていない。それでもいつ来ても変わったという印象はなく、何年後も何十年後も今と同じような景色が広がっているような気がする。もっともそれは推測ではなく個人的な願望かもしれない。誰にとっても故郷とはそういうものだろうか。

 市役所に到着すると案内に従って住民課のカウンターへと向かった。受付で用件を伝えると指定の書類に必要事項を記入するように指示を受け、捺印した申請書を提出した。その際、身分証明書を要求されたので自動車の運転免許証を提示した。そういえば大学に入ってすぐに免許を取得したとき、発行時に戸籍謄本の写しが必要だったはずだが、何が書いてあったかまるで覚えていない。きっと中身を見ないで提出してしまったのだろう。しばらく待った後に名前を呼ばれ内容の確認を求められたが、その場ではちらりと見ただけで手早く手数料の処理を済ませて外に出た。

 隣接する小さな公園に行くと芝生に座り、封筒から書類を取り出すと、目を閉じ大きく深呼吸をしてから書いてある内容に目を通した。端から端まで何度も見直す。幾ら見たところで内容が変わるわけではない。そんなことは分かっている、分かってはいたが、それでも読み返さずにはいられなかった。

「そ、んな……」

 思わず独り言が漏れる。夢ではないかと思いたかった。誰か嘘だと言って欲しかった。何かの間違いだと信じたかった。手元の紙を破り捨ててすべてなかったことにしたい、そんな衝動に駆られた。

 ざわ、ざわざわざわ。

 音を立てて身体中の血が引いて行くのを感じた。

 とにかく書かれている内容の事実関係を確認するための補助情報がすぐに欲しかった。どこで調べるか。図書館とネットカフェを同時に思い浮かべたが、平日の昼間であり、できるだけ人と顔を会わせたくなく、また検索のし易さから後者にすることにした。

 高校時代にたまに利用していた店に行くと幸いにも店内は閑散としていた。ブラウザを立ち上げてキーワードを次々と変えながら検索する。戸籍謄本、養子、認知、嫡出否認、婚外子、民法七七四条、七九〇条――確かに役に立たない情報もたくさんあったが、それらを除外して最終的に導かれた結論は僕を打ちのめした。ショックだった。ある意味、予想の範囲内だったとはいえ、実際に目の前に突き付けられると理性が受け付けなかった。なぜ、知ってしまったのか。知らなければよかったと心の底から思った。しかしここまで知ってしまったらもう引き返すことはできない。

 思い切って父に話すべきか。戸籍は紛れもない証拠で言い逃れできないはずだ。これを見せればすべてを語ってくれるだろうか。いや、まだ自信がない。その前に他の誰かに裏付けを取りたい。青柳の叔父・伯母はどうか。これまでの態度、口振りからして知らない可能性が高いと思われ、また先日に会ったばかりで続けて訪ねるのも気が引ける。他に知っていそうな人はいないか。

 ――そうだ、一人いる。隣町の老人ホームに祖母がいるのを思い出した。時間に余裕があるのでこれから会ってみることに決め、うろ覚えだった施設名と住所を調べてから再びバスに乗り込んだ。

 特別養護老人ホーム「白浪苑」にやって来た。このような施設に来たのは初めてだったが、外から建物を眺める限りは普通の病院と区別がつかなかった。アポなしの訪問だったので会えるかどうか心配しながら受付で祖母の名前を告げると、自分とさほど年の変わらなさそうな女性の職員は朗らかに答えた。

「今の時間ですと、青柳さんは2F『浮浪の間』にいらっしゃるはずです。そこの階段を上がってすぐ正面の部屋になりますが、あまり刺激しないようにお願い致しますね」

 最後の「刺激しないように」とはどういう行為を意味するのか分からなかったが、タブーのような気がして聞くことができなかった。

 教えられた通りに進むと達筆な楷書で「浮浪」と書かれたプレートの部屋があった。大きく深呼吸してから中に入る。八畳ほどの広さの白木フローリングの部屋で、窓際に据えられた安楽椅子に、水色のパジャマに真っ赤な半纏を羽織った老婦人が一人座っていた。口を半開きにしてうつろな目で窓の外の曇天を眺めており、血色の悪い唇の端から涎が垂れて糸を引いている。幼い頃の記憶とあまりに掛け離れているため本当に自分の祖母なのか自信がなかったが、意を決して近づき、声を掛けた。

「あの、こんにちは」

 老婦人はけだるそうな表情で正面に立った僕に顔を向けた。赤黄色く濁った瞳に意思の光を認めることができなかった。

「司です。お元気でしたか?」

「…………」

 しばらく待ってみても相変わらず反応はなかったが、僕は構わず言葉を続けた。

「今日、滝沢家の戸籍謄本を見てきました」

 その一言を口にした瞬間、僅かだが相手に動揺が走ったのが分かった。じっと見上げた目が次の僕の言葉を待っている。僕は唾を飲み込み、息を整えてから言った。

「僕は、滝沢志保と滝沢武の間に生まれた子どもではなかったのですね」

「…………」

 祖母はかぶりを振った。何度も何度も首を横に振り続けた。繰り返されるその仕草を僕はただ黙って見ていた。いつしか祖母の顔は涙と鼻水で濡れていた。

 やがて祖母は動きを止めると、顔を上げて僕を見た。

「……今まで黙っていてすまなかった。許してくれ」

 しっかりとした言葉だった。目に光が戻っている。間違いない、少なくとも今この瞬間、この人は正気だ。

「できるだけで構いません。知っていることを僕に教えてくれますか」

 僕に促され、祖母は涙を拭うとぽつりぽつりと語り始めた。――だが後から思えばそれは、完治していない記憶の傷の痂を無理やりに引き剥がす行為だったのかもしれない。

「今から……かれこれ七年前になるか、香奈が訪ねて来て、お前の実の親を教えて欲しいとわたしに詰め寄った」

「姉が来たのですか?」

 祖母は無言で頷いた。今さらながら姉が自殺の直前に祖母に会いに行ったという話を思い出し、もっと早くここに来るべきだったと自分の行動を悔やんだ。

 それにしても七年前と言えば僕が中一、姉が高一のときに当たるが、そのような昔から姉は僕の出生の秘密について知っていたというのか。自分の記憶では知っているような素振りは微塵もなかったが、僕に悟られぬように見えないところで常に気を配っていた違いない。僕には分かる、姉はそれができる人だ。

 ――ふとあることに気づく。七年前? 戸籍謄本によると僕が滝沢姓を得たのも同じ時期だ。

「姉は戸籍を調べたのですか?」

「いや、香奈は血液型から気がついたと言っていた」

 七年前に起きた出来事を想像してみる。姉が僕の血に潜む秘密を知ったこと、姉が祖母に会いに来たこと、そして僕が「青柳司」から「滝沢司」になったこと――それぞれが偶然だとは思えない。祖母はちらりと僕をうかがい見てから大きくため息をついた。

「恐らく考えている通り、お前の姓が滝川となったのはその直後のことだ」

「そうですか」

 証拠がないので推測の域を超えないが、姉は祖母から話を聞きだした後、父にも事実確認をした上で僕を滝沢家の子にするように訴え、それが受け入れられたのではないか。与かり知らないところで自分の人生が大きく動いていたことを知り愕然とした。

「いずれにせよ、ここまで知ってしまったからには、お前には真実を話さねばなるまい」

 祖母は安楽椅子のひじ掛けを握り締め、真剣な眼差しで逡巡してから顔を上げて僕に告げた。

「お前の実の父親は――滝沢憲仁という男だ」

 ――しばらくの間、息もできずに立ち尽くした。母子手帳を見たときからある程度の覚悟をしていたつもりだったが、まさかその名が出てくるとは予想もできなかった。

 滝沢憲仁――父方の祖父であり、僕が小学校に上がった直後に心臓発作で死去している。享年、六十三歳。幼い頃からよく遊んでくれたりおもちゃを買ってくれたりと、僕たち姉弟をとても可愛がってくれた記憶が残っており、子ども好きで優しい祖父だとつい先ほどまでそう思っていた。

 だが、それは祖父と孫の関係ではなく、親子だったからということなのか。にわかに信じられない。当時の祖父の僕への態度、父への態度、姉への態度、父の祖父への態度がどうだったか、今となっては詳細が思い出せない。いや、思い出すことはできるのだが、その記憶が正確なものかどうか自信がなくなってしまった。父子家庭ではあったがそれなりに幸福だと思っていた思い出が、ガラガラと音を立てて壊れ崩れ始める。

 祖父と母との間に生まれた子ということは、つまり父の腹違いの弟であり、姉とは異父姉弟であると同時に叔父・姪の関係ということになる。目眩がする。僕は誰からも祝福されぬ汚れた血の子どもだったというわけだ――。

「だから、だから父は僕を摘出子として認めな