Monologue (2003年2月11日)

2003/02/11 (Tue.)

よほど珍しいのか、しばしば人から「どうして古典が好きなの?」と尋ねられますが、そんな時は「映画」と「原作の小説」を引き合いに出して説明します。

映画などの二次作品よりも原作の方が好きな人は、登場人物に対する自分のイメージが崩れるからとか、想像力が掻き立てられるからとか、きっとその人なりのこだわりがあるのだと思いますが、わたしの「古典好き」もこれに近い感覚です。

昔の「生の言葉」に触れながら、遠い過去に想いを馳せたり、古語と現代語との隙間、オリジナルと写本(コピー本)との隙間に、ちょっとした想像力を挟む事が出来るのが、古典の魅力だと思っています。

断っておきますと、わたしは確かに古典が好きですが、特別に詳しい訳ではありません。それどころか、古典の「大作」とも言える有名作品をあまり読んでいませんので、少し古典をかじった事のある人に比べると「常識知らず」だと言えます。

例えば「源氏物語」は現代語訳すらまともに読んだ事がありませんし、「枕草子」は作者のセンスに反感を覚え、半ばで投げ出しました。「徒然草」は有名な文の抜粋しか読んだ事がありませんし、「方丈記」に至っては高校の授業で習った出だしの一節しか知りません。

それでもわたしは「古典が好き」だと胸を張って言えます。

どんなジャンルでも、「大作」である事は「有名」である事につながります。では文芸作品が「大作」である為の条件はというと、下記の2点を満たしている事だと、わたしは考えます。

古典文学の場合には、これに加えて、

の計3点が、判断ポイントとなります。

従って、「大作 = 面白い」という図式は必ずしも成り立ちません。むしろ、大作は読みにくいものが多いですから、楽しむ前に挫折してしまう事もざらです(経験済み)。面白いかどうかは、あくまでも個人のセンスの問題です。

(ちなみに、先に挙げた古典の大作も、たまたま機会がなくて真面目に読んでいないだけで、そのうちに読もうかと思っているものもあります。)

話が少し逸れますが、世の中に「古典好き」が少ない理由は、「読みづらい」という避けがたい事実の他に、「古典」という言葉の使われ方にも原因があると思っています。

そもそも「古典(文学)」とは、古い時代(近代より昔)の文字表現を括ったジャンルで、その内容については一切、関知しません。フィクションもノンフィクションもごちゃまぜです。

日本人に「現代日本語が好きですか?」と問うのが無意味なように、「古い日本語が好きですか?」という質問に、素直に「はい」と答える事が出来るのは、専門家やマニアが関の山です。むしろ「好きではない」と答える方が普通の感覚のはずです。

そうではなくて、扱っている内容に目を向けて、「昔のフィクション」「昔のエッセイ」「昔の歌謡」というような感覚で接すると、親近感が沸くと思います。

最後に、わたしが好きな古典で、初心者向けと思われるものを幾つかピックアップしておきます。興味がある方は図書館などで調べてみて下さい。

宇治拾遺物語
面白い話。おかしい話。びっくりするような話。そんな「楽しい」テイストの詰まった古典が「宇治拾遺物語」です。もちろん読みやすさもピカイチ。――ちなみに、よく「宇治拾遺物語」の引き合いとして「今昔物語集」が登場しますが、こちらは「大作」の部類で、真面目に読もうとすると面倒な作品です。ほとんどの人は斜め読みしかしません。
伊勢物語
恋愛を題材とした古典を求めるなら、最初はこれが適切だと思います。一話一話が短く、読み切り形式ですので、肩肘を張らずに読めます。和歌を軸とした男女間の緊張感あるやり取りが洗練されていて素敵です。
平家物語
戦記ものの「大作」ですが、琵琶をべんべん鳴らしながら詠唱する「歌」ですので、文章のリズムがよく、読み易さは折り紙付きです。また、登場人物が「カッコいい」のも魅力です。