よほど珍しいのか、しばしば人から「どうして古典が好きなの?」と尋ねられますが、そんな時は「映画」と「原作の小説」を引き合いに出して説明します。
映画などの二次作品よりも原作の方が好きな人は、登場人物に対する自分のイメージが崩れるからとか、想像力が掻き立てられるからとか、きっとその人なりのこだわりがあるのだと思いますが、わたしの「古典好き」もこれに近い感覚です。
昔の「生の言葉」に触れながら、遠い過去に想いを馳せたり、古語と現代語との隙間、オリジナルと写本(コピー本)との隙間に、ちょっとした想像力を挟む事が出来るのが、古典の魅力だと思っています。
断っておきますと、わたしは確かに古典が好きですが、特別に詳しい訳ではありません。それどころか、古典の「大作」とも言える有名作品をあまり読んでいませんので、少し古典をかじった事のある人に比べると「常識知らず」だと言えます。
例えば「源氏物語」は現代語訳すらまともに読んだ事がありませんし、「枕草子」は作者のセンスに反感を覚え、半ばで投げ出しました。「徒然草」は有名な文の抜粋しか読んだ事がありませんし、「方丈記」に至っては高校の授業で習った出だしの一節しか知りません。
それでもわたしは「古典が好き」だと胸を張って言えます。
どんなジャンルでも、「大作」である事は「有名」である事につながります。では文芸作品が「大作」である為の条件はというと、下記の2点を満たしている事だと、わたしは考えます。
古典文学の場合には、これに加えて、
の計3点が、判断ポイントとなります。
従って、「大作 = 面白い」という図式は必ずしも成り立ちません。むしろ、大作は読みにくいものが多いですから、楽しむ前に挫折してしまう事もざらです(経験済み)。面白いかどうかは、あくまでも個人のセンスの問題です。
(ちなみに、先に挙げた古典の大作も、たまたま機会がなくて真面目に読んでいないだけで、そのうちに読もうかと思っているものもあります。)
話が少し逸れますが、世の中に「古典好き」が少ない理由は、「読みづらい」という避けがたい事実の他に、「古典」という言葉の使われ方にも原因があると思っています。
そもそも「古典(文学)」とは、古い時代(近代より昔)の文字表現を括ったジャンルで、その内容については一切、関知しません。フィクションもノンフィクションもごちゃまぜです。
日本人に「現代日本語が好きですか?」と問うのが無意味なように、「古い日本語が好きですか?」という質問に、素直に「はい」と答える事が出来るのは、専門家やマニアが関の山です。むしろ「好きではない」と答える方が普通の感覚のはずです。
そうではなくて、扱っている内容に目を向けて、「昔のフィクション」「昔のエッセイ」「昔の歌謡」というような感覚で接すると、親近感が沸くと思います。
最後に、わたしが好きな古典で、初心者向けと思われるものを幾つかピックアップしておきます。興味がある方は図書館などで調べてみて下さい。